●●●● No.12/おいら様 ●●●●


CATCH MY HEART


『忘れて下さい。忘れて下さい』
そう、最後に言われた。
しかし、考えまいと思えば思うほど、記憶に留まる、あいつの目。
あいつの声。
偽りの無い心からの言葉を聞いて、それを全て忘れろと言うのは、無理な話だ。
いくらなんでも無理な話だ。
『私の声を聞いて下さい』
悲鳴の様に聞こえたその願い。
それは嫌と言うほど、叶えられている。

突然、背中の扉をノックする音が、たしぎの個人部屋の中に響いた。白猟のスモーカーの船の自室で、
たしぎが今日の勤めを終えて一息ついた頃であった。
こんな夜に誰かしらと思いつつたしぎが応えると、低く急いでいる声が返ってきた。
「俺だ、開けろ」
その声を聴き、たしぎは耳を疑う。
それはこんな場所で聞くことなど有り得ないはずの声。
扉の向こうの人物を再度確認することも無く、たしぎは反射的に扉を開けていた。
するとたしぎの視界を遮るかのように入り口に立っていた男は、たしぎを抱え込むようにして、部屋へと滑り込んだ。
急に感じた浮遊感と、その男の馴染みのある香にたしぎはめまいを覚える。
そして扉が閉まる音と共に、一瞬霧散した思考能力がたしぎに戻ってきた。直後、たしぎは自分を抱えている男に向かって
悲鳴のような大声を挙げてしまった。
「どうしてここにっ…!」
たしぎのその声はすぐに口へとあてがわれたその男の手で途中で消されてしまう。
「ばかやろうっ、でかい声だすなっ!!」
慌てた、しかし低く押し殺した声が、それでもたしぎの心を震わせてしまう声が、たしぎの耳元に直接掛かる。
あまりの驚きに、目を見開いたたしぎの表情は、男の顔を覗き見るとふと緩んだ。
「落ち着け、落ち着いたか?もう叫ぶなよ…」
たしぎの様子を見てもう手を離しても大丈夫かと、たしぎを抱きしめていた男、ロロノア・ゾロは安堵の溜息をつく。
そして、たしぎの口をふさぐ手が触れているたしぎの唇を名残惜しむように指を掠らせてはなれた。
「ロ、ロロノア…」
「よう、久しぶりだな」
さも当たり前の様に、まるで何処か町の一角で知人とで出会ったかの様な口調でゾロは言った。
ゾロは、未だ目の前の状況に対応できていない様なたしぎを見下ろす。
呆然と自分を見上げたまま、微動だにしない。
そのとき、個室の外側の通路を、誰かが通り過ぎる靴音が響いた。
たしぎはびくりと反応する。しかし、靴音が消えると身体の緊張を解いた。
そして、たしぎは一度大きく深呼吸をして、ゾロを再び見た。
その瞳に冷静な光が戻ってきたのが、ゾロに見て取れた。
「ロロノア、何の用です。こんな所まで来て無事に帰れるとでも?」
手を、愛刀へと忍ばせつつ、声の高さを抑え尋ねるたしぎに、ゾロは言葉を探し応える。
「…用か?あーっと、あれだ。このまえの続き」
そのゾロ言葉にたしぎの表情に動揺が走った。

『ロロノア、知っていますか。バレンタインデーを』
『おかしいのは承知です。私がこんなことを言い出すなんて』

一ヶ月前の、今も自己嫌悪に陥らせる出来事を、たしぎは思い出す。
「…あ、あれは、ですから、忘れて下さいと言ったはずです…」
すると間髪入れずにゾロが不機嫌そうに言った。
「おれもそのつもりだった。面倒だからな、考える気も無かった」
そのぞんざいな物言いにたしぎは引っかかるものがあったが、それについて口を開くよりも早くゾロが続けた。
「でも、頭から離れねぇんだよ」
途端、たしぎはゾロを凝視する。
ゾロも、全部テメェのせいだと言わんばかりに、負けじと視線を逸らそうとはしない。

『ごめんなさい。突然こんなこと言い出して』
『でも、止められないんです。苦しくて』

「ったく、勝手なこと言って、勝手に話を終わらせて、勝手に消えやがって…」
その時に言い損ねた愚痴を、ゾロはここぞとばかりに口にしていた。
「…勝手だったことは認めます。あの時は私、何処かおかしかったのです」
意外にも冷静な言葉が返ってきて、ゾロはたしぎの以前の様子との豹変ぶりに、不快感を覚えた。
あの時の、情熱的とも言うべきたしぎの叫びが、存在しなかったものにも思えてくる。
「もう、大丈夫なんです。もう、ちゃんと自分の中で整理できましたから」
なんて、嘘。とたしぎは心の中で付け足す。
まだ、答えなんて出てはいない。あの時胸の内を解放した事で、どうにかその想いを止めているだけなのだ。
しかし、止めていた時が再び動きだそうとしているのをたしぎは感じて、焦りを感じていた。

『聞いてくれますか。聞いてくれるだけで良いのです』

「だから、本当にお願いします。あの時のことは忘れて下さい」
たしぎが尚も同じ言葉を繰り返す。
ゾロは徐々に苛立ちが強くなるのを感じた。勿論ここで話を終わらせる気はない。
同じ答えを聞きに来たわけじゃない。
ここまで来て、同じ事の繰り返しを聞いても意味はないのだ。こんなことを聞きに来たのではないのだ。
何の為にここに来たと思っているのか。
本当に、あれを無かったことにして欲しいと考えているのならば。
「だったら、最初から言うなっ!」
思わず、ゾロの怒気が言葉に表れる。
「大迷惑だ、ばか野郎。テメェの都合ばっかり押し付けやがってっ!」
「酷いっ!そんな言い方しなくたって良いじゃないですかっ!これだから海賊はっ…」
「大体、海軍だとか海賊だとか、テメェはこだわり過ぎなんだよ、この馬鹿」
「馬鹿馬鹿、失礼ですよっ!!大体、こだわるも何も、敵同士なのは紛れも無い事実じゃないですかっ!」
そう叫ぶたしぎの瞳が酷く傷ついているように見えて、ゾロは一瞬口篭もった。

『海兵がこんな事言うなんて変ですよね。無責任ですよね』
『あなたか海賊でなかったらなんて、考えたこともあるのです』
『あなたが、敵でなければって。あなたの敵でなければって』

そして、ゾロは呆れたように言う。
「前も、テメェは勝手に自己完結していたよな」
「間違っていたことがありましたか?まだ、私はあなたを仕留めることを諦めたわけではないですよ」
「…色々、勘違いしてるんだよ、お前は。少なくともお前はもう敵じゃねぇ」
その言葉を耳にし、たしぎは力が抜けそうになる。
あまりの情けなさに笑みさえ零れそうに思えた。
だから聞きたくなかった。だから忘れて欲しかった。だから考えたくも無かった。
所詮、私では、彼の敵にさえなれないのだ。
敵としてさえ、見てもらえないのだ。
こんなにも彼は自分の中で大きくなっていくのに、彼の中には敵としででさえ存在できない自分。
「所詮、私はあなたにとって思い出の人の顔を持つ女ですものね」
懸命に気丈な振りをして放ったその言葉が、かすかに震えているのは、怒りの為か、悲しみの為か。
隠し切れないその感情が、たしぎの細い体が折れてしまいそうな悲壮さとして声に表れていた。

『でも、あなたは、どうせ私の顔など見てはいないのでしょうね』
『あなたが見ているのは私ではないのでしょう』
『あなたが聞いているのは私の声ではないでしょう』

前に聞いたたしぎの叫びがまだゾロの耳に残っている。
「あのな…人の気持ちを勝手に決めつけるな」
「でも、あの時あなたは否定しなかったっ!」
いつしか、再度興奮状態に陥りかけているたしぎの目が、いくらか潤んできているように見えて、ゾロは眉を顰めた。
今度何かうっかり考え無しに発した言葉がこの女を傷つけたら、たしぎは泣き出すかもしれない。
「…だから、こうやって俺がわざわざここまで来たんだ」
ゾロは、言葉を選ばざるを得なかった。
「お前、まだ俺の答えを何も聞いちゃいねぇだろう」
「き、聞きたくないです」
「聞け」
「もう、いいです」
そう言い耳をふさぐたしぎの両腕を、ゾロは乱暴に掴んで耳から離させた。
その力づくの行動にたしぎの身体が強張るのが掴んでいる腕越しにゾロへと伝わる。
「俺の中で、あの日から、お前の言葉がずっと頭に残ってるんだ」
言葉を紡ごうとするゾロの口の中にほろ苦いチョコの味が思い出された。
想いと共に渡された、ほんの小さな、しかし紛れも無く心を象ったその甘い菓子。
ゾロはたしぎのうつむいた頭に囁きかける。
「聞いているか、たしぎ」
ゾロの言葉がたしぎの頭から体中に流れて広がる。
「お前の言葉がずっと頭から離れない」
たしぎの鼓動が速くなる。

『それでも、私はあなたに惹かれています』
『その自由が羨ましくて』

「俺は、海軍だとか、海賊だとか、別にどうでも良いんだ」
たしぎは、腕を掴まれた体勢で、うつむいたまま大人しく聞いている。
「ま、やりたい様にやるからな、軍じゃなくて賊でまちがっちゃいねーけどな」
心の望んだ通りに生きる生き方。
たしぎにとっては、ゾロと出会うまでは海軍で不自由を感じたことはなかったと言うのに。
今は、自分の居場所と、自分の目標と、自分の心の方向の不一致に戸惑っている。
だから。

『何処までも何処までも何物にも縛られない強さに憧れて』

「お前が何者であろうと、構わないんだ」
ゾロはたしぎの腕を掴んでいた手を緩める。
たしぎが微かに視線を上げる。
上目遣いのたしぎの視線がゾロのものと交わると、ゾロはたしぎのあごをしゃくって、自分へと向けた。
「…もし今、俺がお前を好きだっつっても、もう遅いのか?」
その芯の通った精神を反映した相貌に見つめられ、たしぎは息が詰まる。

たしぎは答えない。代りに、じわりと涙が目に浮かぶ。

「なんで泣くんだっ!!」
たしぎの目に光る涙を見て、ゾロが慌てた。直後、たしぎの食いしばった歯の間からもれる言葉にならない空気の音と共に、
耐え切れなくなった涙が零れ落ちていた。
ゾロはたしぎを泣かせない様に、言葉を選んだつもりだったのだが。
「おい、泣くな」
そう言った所で、泣き止むはずも無い。
小刻みにたしぎのか細い肩が揺れる。嗚咽が漏れる。
「泣くな」
ゾロは困り果てる。
泣かせるつもりで来たわけではないのだ。
たしぎは泣きながら軽く首を振る。
たしぎのその姿を見て、堪らなく愛おしさを感じる自分にゾロは戸惑い、そして受け止めた。
ゾロはその頭に優しく両手をそえると、その唇でたしぎの頬を流れ落ちる涙を掬っていった。

『あなたが好きです』

報われないと思われた言葉が、意味はないと思われた言葉が、ゾロによって救われていく。
頬に触れる優しい熱で胸が熱くなって、たしぎは涙を止められない。
そして一粒。花弁のような唇に受け止められた滴。
そのたしぎの唇で止った涙をも、ゾロは迷わず掬い取った。