No.37/シホ様


Last


海軍少尉たしぎは一睡もせずに前方を行く船を見つめていた。
眼前にはたしぎのものと同様の一艘の小舟。今や世界一の剣豪と恐れられる男が乗っている。
緑の髪を短く刈り込み、白いシャツを着た男──その男もまた身じろぎもせず眼前に見えてきた小さな島を見つめている。
その島はたしぎが予想したとおり、彼の生まれ故郷であった。
海軍の情報網を駆使して調べたとおり、今や世界一の剣豪となった男が向かった先は、東の海の果て。
島の小さな砂浜に男が小舟を付けるのを確認して、たしぎは男が坂を上っていくのを見つめた。
男を追って、偉大なる航路を外れ遥か東の果ての海に来た。
男の不貞不貞しい面構えは初めて出会った3年前と変わらない。
まるで赤子の手を捻るように男は易々とたしぎに勝利した。
それ以来いつもその背を追ってきた。いくら追いつこうと足掻いてみても決して敵うことのなかった大きな背中。
たしぎはぎりっと奥歯を噛みしめる。
だが、それも今日でお仕舞い。全身全霊を傾けて男──ロロノア・ゾロと手合わせ願おうとたしぎはそう自分の胸の中で宣言した。

一瞬、ゾロと視線が交差する。ゾロの姿を認めると、たしぎは慌てて海岸に突き出る崖へと続く道を駆け上る。
海を見渡す崖の先でゾロは胡座を掻いていた。
「ロロノア・・・!」
反射的に刀を抜いて身構えると、ゾロがどこに座っているのかを悟る。
そこは小さな墓の前だった。
ゾロは墓の住人と酒を交わしているところだったのだ。
肉親か友人か。
場違いな自分に気づいたたしぎは一礼して立ち去ろうと踵を返す。
その瞬間ゾロに呼び止められた。
「待てよ・・・」
ゾロを振り仰ぐとなんだか当惑した表情を浮かべていた。
たしぎ自身も当惑しながら、素直にその言葉に従う。
墓前へ進みその墓標に刻まれた文字を読む。
「くいな」
そこには死者の名が刻まれていた。それはロロノア・ゾロの亡き親友。
彼が世界一を目指すきっかけとなった約束を交わした主だった。
たしぎは無言のまま膝を折って手を合わせた。
心の中で自分に似ているというくいなに向かって心を空しくする。
くいなという存在へのわだかまりや、ロロノア・ゾロへの畏怖、最後の手合わせへの焦りなど全ての感情が鎮まっていく。
ロロノア・ゾロと戦うためには心を無にしなくてはならない。
「世界一の剣豪、ロロノア・ゾロ・・・」
たしぎは静かにゾロの名を呼んだ。
「私はあなたに勝ちたくて剣を励んできました。どうか最後に私と手合わせを願えませんか?」
腹の底から最後の勇気を振り絞る。
「・・・最後?」
「ええ、最後です」
たしぎは覚悟決めて頷いた。
当惑したようにたしぎを見つめるゾロに、墓前に捧げられた彼の愛刀を渡す。
「お願いです・・・」
もう時間がない。これを逃せば、いつ手合わせできるかわからない。
たしぎのあまりの迫力に根負けしたか、ゾロは渋々刀を抜いた。
間合いを取り、剣道場での試合のように座るゾロに合わせ、たしぎも腰を下ろして互いに礼を交わす。
だが、この勝負は剣道とは違い、真剣で行われる。
ゾロは片手で腕に巻かれた黒い手ぬぐいを取り、頭に巻き付けた。
そして最後に墓前に捧げられていた刀をくわえて、いつものような圧倒される気をその身から迸らせて構えた。
さすが世界一の剣豪。全く隙がない。
真っ赤に燃える気がまるで肉眼で見えるかのようだ。たしぎは自分の構える愛刀時雨を持つ手に力を込めた。
海鳥のような雄叫びと共にたしぎはゾロに斬りかかる。
が、それは流れるような動作でかわされて、淀みない動きでたしぎの剣をはじき飛ばそうとする。
それはまるで舞踏のよう。
芸術的な動きでゾロは舞うがたしぎは瞬時、それをかわす。
・・・強い!
かつて世界一の剣豪と恐れられたジェラキュール・ミホークを倒しただけあって、その動きには無駄がない。
またさらに強くなっている。
一瞬、ゾロの表情が締まったかと思うと、今度はゾロが斬りかかってくる。
手首を狙った峰打ち。
だが、たしぎは危うくそれを避ける。
たしぎは肩で息をしながら、薄く笑った。
そして胸を凪ぎ払うゾロの剣の中に身を泳がせた・・・
たしぎは明るい笑みと共に地面に伏した。
・・・ロロノア・・・ありがとう・・・
感謝の笑みを浮かべるたしぎにゾロは狼狽した。
「・・・たしぎ!」
自身の名を呼ぶゾロを微笑みながら見つめる。
驚愕するその表情に申し訳なくすら思う。
「嬉しいです・・・あなたの手に掛かることができて・・・」
このために、ゾロの元に来たのだから。
「おい、待て」
ゾロは慌ててたしぎの服を切り裂き、墓前に転がる酒を傷口にかけて自分のシャツを切り裂いてたしぎの胸を縛る。
「私は、もう無理なのです・・・ロロノア・・・」
唇を震わせて、ゾロが見つめるのをたしぎは微笑みを持って見つめた。
瞬間、口からいやな音を立てて血が溢れ出した。
「おい、お前!どうしたんだ?」
「私の命は持って半年。だからあなたに斬られて死にたかったのです」
私は愛しい男の腕の中で死ぬことが出来る・・・
たしぎは心底嬉しそうにゾロを見つめていた。
たしぎが嫌な咳をするようになってから、吐血するようになるまで時間はかからなかった。
船医に見せたときにはもう手遅れ。
もって半年。船医から告げられた寿命に、たしぎはあるひとつのことしか浮かばなかった。
いつも真剣に手合わせすることなく敗退したゾロとの戦い。最後だけでも真剣な彼の剣を受けて、そして彼の腕の中で死のうと。
その願いは叶った。たしぎはもう思い残すことはなかった。
海賊であるロロノア・ゾロのことを愛するようになったのはいつからだろう?
最初は反発と敵対心しか沸かなかったゾロの顔をいつから愛おしく思うようになったのだろう?
気づけば彼と手合わせする日を楽しみにするようになり、そして敗退しながらも彼を追う自分を嬉しく思っていた。
だがそれも今日で終わり・・・たしぎは満足して目を閉じようとした。
が。ゾロはそんなたしぎに無理矢理目を開けさせる。
「勝手なこと言うな!真剣勝負に手を抜かれて怒ったのはお前じゃないのか?」
怒るゾロにたしぎは微笑む。
「そうでしたね・・・」
「なんだよ、お前!仮にも世界一の剣豪にむかってそれは失礼じゃねェか!」
まるで血を吐くように呻くゾロの言葉は死のために瞳を閉じようとする自分の心に小さな火を灯した。
「・・・ごめんなさい・・・」
本当だ。ロロノア・ゾロの言うとおりだ。
たしぎは自嘲気味に笑う。
あれほど真剣勝負に手を抜かれて怒っていた自分が最後に自分から手を抜くことになるとは。
だが、もう遅い・・・
たしぎが死への誘惑に落ちそうになった時、唇に暖かい物が触れ、そして炎のような焼け付く液体が口の中に注ぎ込まれた。
乾ききった喉はそれをごくりと飲み込む。
瞬間、冷え切った体の中を再び熱い血潮が巡り始めるのを感じた。
これは・・・!
彼の船医であるトナカイが発明した伝説の不死の妙薬に他ならなかった。
それがどれほど貴重なものであるのかはたしぎにとっては火を見るほどに明らかだった。
再び瞳を開けると、ゾロが溢れる涙を拭おうとはせずたしぎを見つめていた。
たしぎの意識が戻るのを確認すると、自分の着ていたシャツを再び切り裂き応急処置を再開した。
海軍の情報ではこの既に伝説と化した薬がこの世でたった11瓶しか存在せず、麦わらの一員にそれぞれ一便づつ与えられたもの、と聞いている。そしてそれが真実であると言うことをたしぎ自身の情報収集によっても確認していた。
そのたったひとつの薬をゾロは躊躇いもなくたしぎの命を黄泉から引き戻すのに使った。
たしぎは再び巡り始めた血が、涙を溢れさせるのを感じた。
「・・・なんで助けたんですか・・・」
「・・・わかんねェ・・・」
「その薬があなたの船の船医が作り出したもので、それがあなたの最後の分だと分かっているのですか?」
「さすが海軍だな。そんなことまで知ってるのか?」
「答えてください!ロロノア!」
「わかんねェんだよ、自分でも。気づいたらお前に飲ませていた。そうしないといけないと思ったまでだ」
ゾロのいらえにたしぎはその瞳を真円に見開いた。
到底信じられなかった!
そのような理由で、この貴重な薬を使ったというのか?敵である海軍の私に・・・!
たしぎは胸を揺さぶる感動にようやく言葉を結ぶ。
「ロロノア・・・完敗です・・・」
「そんなこと言わず、また掛かって来いよ」
ゾロは白い歯を見せ、屈託のない笑顔でたしぎに微笑んだ。
たしぎはまた、一筋の涙を流した。

船医が作り出した薬は噂に違(たが)わず絶大な効果を見せてたしぎを回復させる。
彼の生まれ故郷の村で暮らすうち、いつしか彼らは愛し合うようになり・・・そして1年後。
村はずれの神社にて、ふたりきりの小さな式が挙げられた。
新郎は海賊。新婦は海兵。
1年の大半を別々の船で暮らしほとんど無人の新居だったが、ごくたまにふたりで仲むつまじく剣を交わす姿が村人達に目撃される。
からかうように笑う男を真剣に怒る女。
やがてふたりに小さな女の子が生まれ・・・村中を所狭しと駆け回るようになり、その子供もまた海に出るようになるのは、また別のお話。

 

- END -