No.190/長山ゆう様
朝の光景。
何かの割れる音と小さな悲鳴が、ゾロを眠りから呼び覚ました。
――ああ、もう朝か。
けだるげに身を起こす彼の耳に、ばたばたと駆け回る足音が聞こえてくる。
ゾロは苦笑を浮かべると、簡単に身支度を整えて部屋を出た。
そのままキッチンへと足を向ける。
案の定、そこにはほぼ彼の予想通りの光景が広がっていた。
テーブルの上には二人分の朝食の準備が整えられている。茶碗や汁碗は伏せられたままだが、焼き鮭、のり、卵焼きは皿にのっていた。鮭は多少焦げているものの、食欲をそそる香りを漂わせている。
朝食にこれだけのものが用意できれば上出来だろう。
ただ、テーブルに用意された漬け物は一人分しかない。その理由は一目瞭然だったのだが。
「…よぉ」
ゾロはテーブルの脇、キッチンの入り口近くにしゃがみ込んでいるたしぎに声をかけた。朝の挨拶にしては間の抜けたものだが、これは仕方のないことだろう。
彼の足音に顔を上げたたしぎもまた、少し調子の外れた挨拶を返した。
「お、おはようございます。…もう起きたんですか?」
「その音で目が覚めた」
ゾロが視線でたしぎの前を指し示す。そこには、陶器の破片が散乱していた。
途端に、たしぎが慌てて片づけ始める。
「す、すみません。さっきつまづいた拍子に落としてしまって…」
おそらく、テーブルの上の漬け物の対として用意されたものだったのだろう。陶器の破片しか散らばってない所を見ると、盛りつける前だったらしい。
どうやら、「今日の」被害はこの皿のようだった。
白いエプロン姿のたしぎは、傍らのちりとりに大きな破片を一枚ずつ乗せている。その手つきがやや危なっかしいとゾロが思った矢先。
「いたっ!」
「切ったのか!?」
痛みで反射的に引き寄せたたしぎの手を強引につかむと、ゾロは傷口を確認した。
右手の中指の先が切れており、傷からはみるみる血が溢れている。指先ということもあり、傷口自体はさほど大きくないのだが、血が収まるまでは動かさない方が無難だろう。
「あの、ロロノア」
「そこに座ってろ」
平気だと言おうとしたらしいたしぎの言葉を遮り、陶器の破片が飛んでいないことを確認したゾロが、テーブルに備え付けられている椅子を指した。
「先にこれを片づけてからでも」
「お前の手の方が先だ」
有無を言わさぬその口調に、たしぎはしぶしぶ従った。
キッチンに常備している救急箱からガーゼを取り出し、ゾロが彼女の傷口の血を拭う。傷が少し深い気がするが、陶器の破片などは入っていないらしい。手際よく消毒を済ませると、ゾロは救急箱を片づけた。
そして、床に散らばった破片を見やる。
「こいつは俺がやるから、ちょっと待ってろ」
「いえ、私がやります!割ったのは私なんですから」
「いいから座ってろ。これ以上怪我したら面倒だろうが」
「こんなの怪我のうちに入りません。すぐ済ませます」
たしぎは立ち上がろうとしたのだが、ゾロがその肩を押さえた。
こんなかすり傷で止められてはかなわないとばかりにたしぎがゾロを見上げる。と。
ゾロは、じっと彼女を見下ろしていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「…今だけだから座ってろって。お前が慌てるとロクなことがねェだろ」
ため息混じりの、けれども普段より幾分優しい彼の声音に、たしぎは反論を飲み込んだ。
たしぎが動かないことを確認して、ゾロは床に散った陶器の破片を手際よく片づける始める。
さほど時間をかけずにそれを終えると、ゾロは空いていた椅子に腰を下ろした。
「腹減った」
手持ち無沙汰で彼を眺めていたたしぎの顔が、明るくなる。
「すぐに用意しますね。ちょっと待っててください」
たしぎは勢いよく椅子から立ち上がり、鍋に火をかけた。
テーブルに頬杖をついたゾロが、冷めた味噌汁を温めるたしぎの背中へ笑いを含んだ声をかける。
「もうコケるなよ」
「だ、大丈夫です!」
声がややうわずり、肩も少し緊張しているようだったが、たしぎは暖めた味噌汁をこぼすことなく碗によそい、なんとか朝食の支度が整った。
急須に湯を入れ、それを鍋敷きの上にのせると、今度は無事に用意を済ませられたたしぎが、ほっと安堵の息をつく。
ゾロは頬杖をついたまま、そんな彼女を見つめていた。
たしぎが不思議そうに首をかしげる。
「どうかしました?」
「いや、別に」
たしぎから湯飲みを受け取りつつ、ゾロは答えを濁した。
こうしてたしぎと二人で居ることが嬉しいのだと口にするのは、少々照れくさい。
「うまいな」
代わりに、一口食べた朝食の感想を言葉にすると、たしぎは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「これで朝の騒動がなけりゃァ申し分ねェんだが」
「あれは…その…」
たしぎが赤面して口ごもった。
…ゾロ曰くの「朝の騒動」だが、今日が初めてではないのである。
かなりそそっかしいたしぎの普段の様子から、料理は皆目無理だろうと思っていたゾロだったが、意外にもたしぎは料理音痴ではなかった。一緒に生活を始め、毎食料理を作ってもらうようになったゾロには嬉しい誤算だったのだが、問題は、彼女がよくコケることなのである。
結婚してからそろそろ一週間になるが、毎朝たしぎは何らかの食器を割っているのだ。昼や夜も例外ではない。
「おまえがコケんのは、慌てるからじゃねェのか?」
土壇場で慌ててしまう性格が原因のひとつなのだろうが、ともかくたしぎは毎日食器を割ってしまい、その音がゾロの目覚ましとなっていたのである。
「…そうでしょうか」
小さな声で応えるたしぎに、ゾロは溜息を漏らす。
「他にどんな理由があるってんだよ。少しは落ち着いて行動してみたらどうだ?」
「落ち着いて…ですか?」
頼りなげな視線を向けてきたたしぎへ、ゾロはひとつ提案をした。
「そうだな…試しに、何かを始める前に、深呼吸でもしてみろ。そうすりゃ、ちったァ落ち着くんじゃねェか?」
ゾロ自身は気が動転してコケるという経験がほとんどない。そのため、あまり具体的な助言が出てこないのだが、たしぎに必要なのは落ち着きなのではないか、という気がするのだ。
さすがに毎日食器を壊されては厄介である。
たしぎは少し考え込んでいたものの、ひとつ、頷いた。
「わかりました。やってみますね」
…果たしてどれほどの効果があるのか、疑問ではあるのだが。
――ゾロの助言が功を奏したのか、その後、たしぎが食器を割る回数は格段に減っていった。
とはいえ、彼女がよくコケる癖が一向に治らなかったのは、致し方ないことなのかもしれない。
- FIN -