No.45/十夜様


十六夜


いつもはくるくると猫の瞳のごとく移り変わり、船乗りを翻弄する "偉大なる航路"の潮流。
それが今夜ばかりは、凪の帯のように、まるで磨きぬかれた鏡のような水面を浮かべている。
ほんのわずか欠けた月が漆黒の天空に淡い光の冠をいただきながら、ゴーイングメリー号の甲板を明るく照らし出していた。
ランプの灯火よりも確かなその月光の下、ゾロは独り、一本の抜き身の刀と向かい合っていた。
仲間達は皆、すでにまどろみの中にいる。今はただ静寂だけがゾロと刀を包んでいた。
刀の銘は、『和道一文字』。
その身に月の衣を纏い、いつにも増して『和道』は美しく光輝き、そんな刃の煌めきを、
ゾロは目を細めてまぶしげに見つめていた。
いつの頃からだったろう?
迷いが生じ、己の心を何かが遮る時、ゾロは必ず抜き身の『和道一文字』と対峙した。
『和道』の曇りのない直刃は、真っ直ぐにゾロの瞳を映し出す。
その冴え冴えとした刃の煌めきは、遠い記憶の中にいる少女の瞳の煌めきに良く似ていた。
自分より少し年上だった少女・・・。その瞳と同じ煌めきを黙って見つめていると、
どんな時でもざわつく心が静まり、迷いは払拭されたのだ。
だが、不思議なことに今日だけは、どんなに『和道』を見つめつづけていても心は収まらなかった。
精神を統一してみようと深く息を吸い込んだり吐いたりしても、乱れた気持ちは一向に変わらなかった。
(わからねぇ・・・。ちっ、こんなこたぁ初めてだ・・・。)
頭を振りながら、ゾロは抜き身の『和道』を静かに鞘に収めた。
鍔が鞘に触れ、甲高い金属音がかすかにゾロの耳に届いく。
(どうしたもんかな・・・。)
鞘に収めた『和道』を自分の傍に横たえながら、ゆっくりと瞳を伏せる。一瞬の闇。
その奥に少女の顔が鮮明に浮かび上がる。幼い少女と成長した少女の顔・・・。
どくんっ!!
心臓が大きく拍動するのと同時に、ゾロは両眼を勢いよく見開き、
苦しげにシャツの胸の辺りを鷲づかみにした。鼓動が異様に早まっている。
自分の意志とは関係なく速いテンポを刻む心臓に、思い通りにならない歯がゆさからか、
ゾロは息を止め、シャツをつかんだまま二三度大きく自分の胸を叩いた。
鍛えられた胸板から鈍い音が響き、静寂をしばしかき消す。
「・・・っぷはっつ!!」
鼓動がいつものテンポに戻ると、ゾロは止めていた息を大きく吐き出した。
「ふうぅーっ」
大きなため息をついて呼吸を整えながら、ゾロはそのまま甲板を背に大の字になった。
夜風がゾロの頬をかすめていく。
(・・・ひとつだけはっきりしている。俺の心を掻き乱しているのは、間違いなく「あの女」なんだ。
「くいな」に似た「あの女」。
でも、なんだって、「あの女」に俺はこんなに気持ちを乱されるんだ? なんだって、こんなに心臓が
ばかみてぇに騒ぐんだ? 怯えてんのか? 死んだ奴に似てるからか? わかんねぇ・・・。)
ゾロは再び目を閉じた。今度は眉根をきゅっときつく引き締めて。
闇に再び少女の顔が浮かび上がる。今度は成長した少女−「くいな」に似た「あの女」−だけだった。
鼓動はまたも早くなり始めたが、ゾロはそのまま目を閉じていた。
閉じたまぶたの向こう側から月の光がにじんでくる。
蒼銀色の光に彩られて、少女は刀を振るっていた。しなやかな舞のような太刀さばき。それでいて力強い。
そして思わず目を奪われる、少女の深瑠璃色の瞳。
ゾロはふと、少女がゴロツキ海賊どもを倒した時も、少女と初めて太刀を交えた時も、あの細身の身体のいったいどこから
あの強さは生み出されるのだろうと感心したことを思い出した。
そして同時に、楽しさと嬉しさと、喜びを感じていたことを。
また今、その思い出に浸ることが、非常に心地よいことも。
早鐘のような鼓動は、いつしか穏やかな旋律へと変わっていた。
(怯えてるわけじゃねぇんだよな・・・。)
目を開けると、頭上の月は、かなり西よりに傾いている。そろそろ夜明けも近い。
(そういやぁ、今夜の月は『十六夜』か・・・。)
満ちたようで満ちていない、ほんのわずか欠けた月・・・。そのわずかさが、なんとももどかしそうに見える。
そんな月のいでたちを見て、ゾロは片方の口の端をニッとあげて嘲笑った。
(まるで今の俺みてぇじゃねぇか。答がつかめそうでつかめねぇ。)
そう思うや否や、ゾロはおもむろに立ち上がり、横たえていた『和道一文字』をいつものように腰に挿した。
(悩むのはやめだ。いつまでも出ねぇ、答を探してたって時間の無駄ってもんだ。悩むヒマがあったら、
前へ進んだほうが道も開けてくるだろう。・・・それに)
ゾロは『和道』の柄をポンポンと軽く叩いて呟いた。
「それに、お前がいずれ導いてくるんだろう。・・・あの女を。」
踵を返し、甲板を後にする。背中に十六夜の残光を受けながら、ゾロは確信していた。
もう一度あの少女と出会った時、今、自分の探している「答」が明確になるだろうことを。
その日が早く来るといいと思いつつ、自分のそんな考えに少し呆れてゾロは軽く頭をふって笑った。
・・・もうすぐ東の空が白みはじめる。「その日」は、確実にまた一歩近づいていた。

 

- 終 -