No.31/かみん様


誓願


次に会えば、確実に仕留めると決めていた。迷いがあれば、それはいずれ己を滅ぼすのだ。
魔獣、ロロノア・ゾロは自分に刃を向けた者を決して許す事はない。
例え子供でも、女でも。
だから、次に会った時は確実に斬るつもりでいた。
それが何時であっても構わない。ただ。
出来る事ならこのままずっと会わずにいたかった。
しかし次に会う事をいつも考えていた。
ゾロは、矛盾した自分の感情に戸惑っていた。
無骨な彼の唯一大切な脆い部分を体現した海軍の女曹長。
意思の強い黒い瞳。自分を『ロロノア・ゾロ』と知っても恐れず向かってきた透明な剣気。
出会った時はその『くいな』との酷似だけが彼を驚かせ、斬る事を躊躇わせた。
あのローグ・タウンの雨の中、剣を交わした後にゾロは彼女に言ったのだ。
─俺を倒したければ追って来い。─
キッと見上げたまっすぐな眼が、焼き付いて離れない・・・。

「ゾロー!」
彼の船長が呼ぶ声に、いつも通り甲板で惰眠を貪っていたロロノア・ゾロは覚醒した。
逞しい腕をグイっと上に伸ばし、一つ大欠伸をしてこのゴーイング・メリー号の
船長モンキー・D・ルフィに目をやった。
目覚めが悪い。あの時の夢を見るといつもこうだ。
「着いたわよ。私達は降りるけどゾロ、どうするの?」
航海士のナミが見事なオレンジ色の髪を指でかきあげながら聞いた。
ぼんやりと状況を把握する。どうやら次の島に着いたようだ。あのローグタウン
とは比べようもないが、中々大きな港町らしい。
祭りでもあるのか、太陽の光をあちこちに飾られたリースがキラキラと反射している。
子供達の笑い声や打ち鳴らされる楽器の音。喧騒。
行き交う人々のざわめきと活気がこの船のメンバーを駆り立てているようだ。
ゾロはもう一度欠伸をして肩を鳴らすと立ちあがった。
「飲んでくる。」
「テメェはそればっかりだな。」
食料の在庫をチェックし終えた料理人のサンジが呆れ顔で新しいタバコを咥える。
「ゾロは飲んでるか、寝てるかどっちかの人生だ。」
狙撃手のウソップがからかうようにそれに答えた。
ゾロを加えたこの5人が『麦わらルフィ海賊団』の全員である。たった5人。しかも全員が二十歳を越えてはいない。
決して前例のないグランドラインの航行である。
彼らはバラバラと船を降り、それぞれの方向へと散っていく。あっと言う間に人々の波に飲まれて姿が見えなくなった。
たった5人だが、なかなか頼れる仲間達でもある。
幼い頃に村を出てずっと一人で生きてきた。仲間を持った事はなかったが、案外
悪いものでもない。いずれ袂を分かつ時はくるだろうがそれまでは彼らと行こうと思っている。

ゾロは最後に船から降りると酒場を探しに歩き出した。
腰の三本の愛刀が足を進める度に音を立てる。賑わう人々の間を擦りぬけ、それらしい看板を探す。
普段、出不精で面倒くさがりなゾロだが、祭りのざわめきは嫌いではない。
浮かれ騒ぐ人々の楽しそうな顔がすれ違って行く。一人で旅をしていた頃周りは全て
敵だったが、こういう日だけはどこの村でも町でも何のこだわりもなく彼を受け入れてくれた。
「てめェ!!女だと思ってりゃ調子に乗りやがってェ!!」
気分良く通りを歩いていたゾロの耳に割れんばかりの怒号が飛びこんできた。
素早くその声の方に眼をやる。左手はすでに刀の柄に伸びている。
「何度でも言います。その人を離してください。」
負けじと言い返すその声に、ゾロは動きを止めた。いや、動けなかった。
あの女・・・。
20人は下らない数の大男達を前に立ちふさがる線の細い女の姿が、その騒ぎを
取り囲む人ごみの間からゾロの眼に飛び込んできた。
海軍本部の女曹長だ。
目の前の男達は柄の悪い海賊らしい。リーダー格の男の右腕が、虚ろな眼をした女の首を抱いている。
女の服はボロボロに破け、殴られたのか頬や体のいたる部分に青痣が出来ている。
「この女は戦利品だぁ!!どう扱おうが俺らの勝手だろうが!」
女曹長よりも身の丈も胴回りもかなり上回っている男が、がなり声を上げた。
周りの取り巻き達も彼女をからかう様に罵声を飛ばす。
「もう一度言います。その人を離しなさい!」
女曹長の手が、腰の刀の柄にかかった。やる気だ。
ゾロは反射的に飛び出した。
次に会ったら彼女を斬ると決めていたが、自分で斬るのと他人にやられるのとでは訳が違う。
人ごみでは刀を使う事は分が悪い。屈強な海賊を相手に女であるあの曹長が肉弾戦で対抗しうるとは思えない。
彼らを囲んでいた野次馬達が慌てふためいて四方に散ろうとするが、祭りの人ごみで思うようには進まない。
剣を使えるような状況ではない。ゾロは舌打ちした。
案の定、女曹長は刀を抜かない。抜いた途端に回りの人間を傷付ける事になる。
海賊達はお構いなしだ。動きの取り易い小刀などを取り出すと彼女へと殺到した。
将棋倒しになる人々を庇いながら、彼女は剣を抜かずに応戦する。
周りが触発され、喧嘩が始まる。完全に乱闘状態だ。
彼女の頭に正に棍棒が振り落とされかかったその時、やっとの事でゾロはその中央に到着した。
腕を伸ばし、その棍棒を振り落とそうとした男の襟首を掴むと後ろへ引き倒す。
男はもたもたと足をもつれさせると逃げ惑う人々にぶつかりながら転倒した。
女曹長の黒い瞳が大きく見開かれ、まるで信じられない物を見た様に呟く。
「・・・ロロノア・ゾロ!!」
「驚いてる場合か!」
恥をかかされた男は憤ってまた彼らの方へ突進した。ゾロはギリギリでその男の
攻撃を避けると腹に強烈な膝蹴りを打ちこむ。
乱闘はまだ続いている。女曹長、たしぎははっと我に返ると向かってきた別の男をかわすと首筋に手刀を叩き込んだ。
興奮状態は伝染し、周辺一体が喧騒に包まれた。女や子供が泣き喚きながら逃げ惑う。
否応もない。たしぎはゾロに背中を預け、ぐるりと囲まれた男達の幕を蹴散らしていく。
ゾロが加わったせいで状況の優劣が逆転した。女を抱きかかえた海賊のリーダー
格はギリギリと奥歯を噛み、地団駄をふむように地面を蹴り飛ばした。
「クソがっ!こんな女なんぞくれてやるわ!!」
言い捨てると、意識さえはっきりとしないその女を通りへと放り投げる。
「!!」
頭から地面に落下しそうになった女をたしぎは自分が下に滑り込み、受け止めた。
たしぎの神経は女性の安否に集中される。
が、男はそれを待っていた。丸太のような腕が振り上げられ、拳が、たしぎの左側頭部を強打した。
一瞬の出来事。
ぐらり、とたしぎの上体が一度揺れ、声もなくその場に昏倒した。
「おい!!」
振り返ったゾロの声にも反応はない。
海賊から解放された事で女の方は僅かに正気が戻り、絶叫を上げると逃げ惑う人々にまじって走り出した。
周りの海賊達がわっと喚声を上げる。リーダー格の男は、たしぎの細い身体を誇らしげに踏み付けた。
たしぎは、動かない。
動かぬまま、砂埃の舞う地面に横たわっている。
ゾロは動きを止めた。
周りの喧騒が聞こえない。全身の血液が沸騰している。ただ自分の破裂しそうな
心音だけが、耳の奥で鳴り続けた。
「どこ見てやがる!!」
棒立ちになったゾロに数人の海賊が殺到する。
ゾロは腰の愛刀『三代鬼徹』の柄に手をやり、躊躇なくその刀身を抜いた。その
刹那、飛びかかった海賊達は血飛沫を上げて地面へ落下し壊れた人形のように転がった。
「おい。」
地の底から響く声に沸いていた海賊の動きが止まった。まるで魔獣に魅入られたかのように、身体が硬直している。
その眼を、見た瞬間に。
それはまさに鬼神の眼だった。灼熱の地獄を見る思いで海賊達はロロノア・ゾロを前にしていた。
「そいつを殴ったのは手前ェか?」
死刑宣告を受けた罪人の様にたしぎを殴った男の額から汗が吹き出る。
だが手下達の手前、男ははだけた厚い胸を反り返らせ、ずい、と前へ出た。
「そいつがどうかしたか、兄ちゃん?!」
せいぜい強がった台詞だった。が、その言葉は最後まで発音する事が出来なかった。
喉が、鮮血を吹き上げると男は全く状況を理解しないままに絶命した。
一瞬の斬光を残したゾロの刀が翻り、次の獲物を探す。
「・・・ロ、ロロノア!!こいつァロロノア・ゾロだ!」
残された海賊の一人がゾロの腰に眼をやり、やっとの事で自分達が対峙していた
男の正体を口にした。
三本の刀、左腕に巻かれた黒い手ぬぐい。愚かにも海賊達はイーストブルーの
魔獣と恐れられた最凶の海賊狩りに喧嘩を売ったのだ・・・!
絶望の声を上げ、海賊達はゾロに斬りかかった。逃げられはしない。
ならば万が一の勝機を狙った方がまだ生きる確立はあがる!!
だが、その考えは全く誤っていた。
彼等の相手はロロノア・ゾロなのだ。
正に瞬く間に向かった全員が血の海の中に沈んだ。それは『生死』などという次元で語れる物ではなく、
あまりに唐突でそして呆気ない。
断末魔の呻きさえも聞こえない。圧倒的な『死』だけがロロノア・ゾロの周囲を包んでいた。
顔色一つ変えずに返り血を浴びた魔獣はその死の中央に佇んでいた。
「・・・・わぁぁぁ!!」
幾ばくかの静寂の後、誰かの悲鳴じみた絶叫を合図にまた人々は逃げ出した。
少しでもこの死神から離れようと恐怖にもつれる脚を前へ前へと踏み出す。辺りはまた騒然とした。
ゾロは刀を鞘に収めると倒れているたしぎに近付き、その青ざめた顔に血まみれの手を近付けた。
息は、ある。
凍り付いていた背筋にどっと汗が噴出した。
生きていた。
訳も分からずに走り回る群衆に踏まれないよう、ゾロは手についた血をズボンで
擦り、たしぎの力の抜け切った身体を抱き上げた。
意識はない。腕に抱くと見た目よりも更に細い。
よくあの大男達を相手に立ちまわるものだ。
その時、ピーっ!と甲高い笛の音が離れた位置から鳴り響いた。
「海軍だーっ!!」
わっとまた群集が色めき立つ。祭に軍隊は歓迎されるものではない。
ゾロはたしぎを抱いたまま、そちらとは反対の方向に駆け出した。このままここにいるのはまずい。
たしぎをそのまま置いていけば海軍が引き取って行くだろうが、ゾロはそうしなかった。
どうしても、自分の眼で彼女が意識を取り戻すところを見なければ安心できなかった・・・。

ひやりとした感触と鈍い痛みに、たしぎはゆっくり眼を開けた。頭が鉛のように重い。
薄暗い場所。やっとの事で目がその場の明るさに慣れてくる。そして目に入った
男の顔・・・。
「・・・ロロノア・・・。」
口にした瞬間に頭に激痛が走る。
「喋るな・・・!」
ゾロは低く命じると、また濡らした手ぬぐいを彼女の頭に付けた。その冷たさが
心地良くたしぎはもう一度目を閉じ、そして開いた。
唐突に状況を把握した。
荒れ果てた空家らしい。たしぎは床に座ったゾロの上に抱かれていた。
慌てて立ちあがろうと身体を動かしかけたがまた、急激な頭痛に襲われそのまま
崩れるようにゾロの胸にもたれかかった。
「動くな!」
ゾロの腕がぐいっと寄りかかったたしぎを押さえる。血の匂いが鼻をついた。
段々と何が起こったのかが思い出された。どうやらゾロに助け出されたらしい。
痛みを発している部分に触れるとまるで自分の身体ではないような形に腫れあがっている。
祭のざわめきは遥かに遠い。
たしぎは目線をゾロに戻した。
こんなに間近に見るのは初めての事だ。
「・・・怪我は?」
ゾロのシャツに付いた血を見て、たしぎは尋ねた。ゾロはフンと鼻を鳴らす。
「誰に聞いてるんだ。」
ゾロは海賊を打ち倒したのだろう・・・。激しい痛みのせいではっきりとは覚醒できない。
そのぼんやりとした感覚でたしぎは大人しくゾロの腕の中に収まっていた。
厚い胸。逞しい腕。たしぎの望んでも手に入れられないもの。
見上げるゾロの顔つきは強張っている。
「・・・ロロノア?」
呼びかけられ、ゾロは身体を震わせた。
たしぎの腫れあがった左の頭が痛々しい。それでも生きていて良かった。
こんなに自分が誰かの死に過剰に反応する事があるのかと驚いてもいる。
もし、彼女が死んだら、あの場で狂っていたかも知れない・・・。
それをはっきりと自覚していた。
くいなが収まっていた、あの小さな白い棺が目の裏に過る。
─人間は脆いね─
ゾロはただ、たしぎの死が恐ろしかった。あの時、何もできずに『くいな』の死に
直面した時の絶望感が思い出され、ゾロはもう一度身震いした。
人間は、簡単に死ぬのだ。
自分もそうやって命を摘み取ってきた。ゾロとて、いずれ死ぬだろう。
だが彼女の死に対峙した時、正気を保っていられたか自信がない。
知らず知らずの内にたしぎを抱く腕に力がこもる。
かすかに震えているゾロの腕で、たしぎはゾロの青ざめた顔を見つめていた。
たしぎが、死んだ親友にそっくりだとゾロは言っていた。
たしぎはその人を知らない。どんな女性でいつ、どのように死んだのかも。
ただゾロにこんなに傷付いた表情をさせる事が出来るその人を思うと、胸に小さな痛みを感じた。
たしぎは一つ息を付くと、そっとゾロの頭に手をやった。
遠くへと思いを馳せていたゾロはたしぎの手の暖かさにはっと彼女を見下ろした。
追い詰められた表情。額には汗が浮かんでいる。
そのゾロの頭を、たしぎは優しくなでた。まるで、子供をあやすように。
「ロロノア、大丈夫です。」
柔らかい声が優しい手が、ゾロの凍り付いた心を次第に溶かしていく。
震えが徐々に止まり、身体の力が抜けていく。
先刻まで死んだくいなの顔と重なっていたたしぎが、生きて、呼吸をしている。
腕の中に、暖かいたしぎがいる。
「私は死にません・・・。」
黒い瞳が優しく微笑むと、はっきりと口にした。
ゾロは何かを言おうとして声が詰まった。ただ、たしぎから顔を隠すようにうつむいて奥歯を噛んだ。
情けない表情を見せたくない。
この荒んだ時代に適わない約束かもしれない。ましてや剣を交わし、互いを打ち倒そうとする二人には矛盾した言葉…。
それでもたしぎは誓ってくれた。『死なない』と。
たしぎの柔らかさが、暖かさが、ゾロを解していく。
たしぎはうつむいたゾロの頭を、ぎこちない手付きで撫でつづけた。
自分が彼の最も脆い部分に触れているのだと分かっていた。だから、優しくしたかった。
ゾロの身体がまた力を取り戻しやっとの事で顔を上げると、たしぎの手を緩く掴んだ。
「おい。」
思わず曝け出してしまった弱さが気恥ずかしく、眉をしかめる。
たしぎはゾロを撫でていた手をされるままに下ろした。ゾロはまた、たしぎから
目を反らすとぼそりと呟いた。
「・・・ありがとうな。」
そのままふいとまた顔を背ける。たしぎは痛む頭でぼんやりとゾロを見ていた。
耳が赤い。照れているのだろう。
「どういたしまして。」
たしぎは答えると思わず口元に笑みをこぼした。その気配にゾロはチッと舌打ちし、
たしぎを抱いている方とは逆の手で顔を押さえる。
「これで勝ったと思うなよ。」
奇妙な負け惜しみを言うと、たしぎを支えながら立ちあがった。このままここに
二人でいる訳にもいかなかった。
何よりも今こうしている所を海軍に発見されればたしぎの立場が危うい。
ゾロは彼女の体温から離れることに少し不安を覚えたが、その自分の感情に気付いてまた戸惑った。
不安定な状態でなんとかたしぎは自立した。まだ歩くと眩暈がする。
しかしそれをゾロに気付かれないように、笑った。
「勝ったなんて思いません。勝つのは、剣でです。」
ゾロは少し眉を上げ、フンと鼻を鳴らした。
「まだまだだな。あんな雑魚にのされてるようじゃ先が思いやられる。」
憎まれ口を叩きながらたしぎの腕を支えて外の気配をうかがった。
祭に向かう人々がまばらに道を急いでいる。海軍らしき人影はない。
日が暮れかけ、これからが祭りの本番なのだろう。先刻よりもより、ざわめきが高い。
町の中央からは光が上空へと昇っている。
ゾロはふとたしぎと目を見合わせた。これからはまた、追う者と追われる者に戻るのだ。
触れたい衝動を拳を作ることで誤魔化し、ゾロは外へと顎をしゃくった。
「行け。」
たしぎは小さく頷くと、くるりとゾロから背を向けた。
「次は、貴方を斬ります。」
きっぱりと言い、歩き出す。
ゾロはそのたしぎの背中ににやりと笑った。
「好きにするさ。」
廃屋の扉に寄りかかり、小さくなっていくたしぎの影を見送りながらゾロは無意識に刀の柄に触れた。
日没が近い。
暮れかかった夕日が全てを朱に染める。その鮮やかさは血の色を連想させる。
次はまた、剣を交わす事になるだろう。
斬れるのだろうか。
いずれ、たしぎの命を摘み取らなければならない日が来るのかもしれない。
その日がやって来たとき、自らの手で彼女を斬れるのだろうか。
ゾロはたしぎの体温がまだかすかに残っている掌をぐっと握り締めた。
少しでも、その感覚が失われないように・・・。

 

- END -