No.31/かみん様


小さな波紋


抱き合う熱の心地良さ。重ねた唇の柔らかさ。
躊躇いがちに背に廻される細い腕。
偶然という要素がなければ適わない逢瀬。
初めて出会った時は想像さえしなかった。
互いを求めてやまなくなるとは・・・。
腕の中の女を見下ろし、ロロノア・ゾロは一つ息を付いた。
窓の外は雨。薄暗がりは二人の時間の終わりを急いている。
お互いの夢があるから、今は同じ道を歩む事は出来ない。
しかし二人でいる時間は余りに速い。別れる時間が近付くと、お互い無言になる。
もともとゾロは口数の多い方ではない。ましてや時間は限られている。抱き合う事がより確実に二人を近付ける。
安穏とした幸福感。何時の頃からか剣を合わせた後、こうして短い時間を二人で過ごすようになっていた。
腕の中のたしぎは何を考えているのだろう。ゾロの胸にもたれたまま、やはり言葉はない。
離れれば、暫くは逢えない。
何の約束も出来ない。だが何の根拠もなく信頼し合っている。
きっかけも、将来も全て不確かで曖昧。
それでも想う衝動だけが止められずに抱き合うのだ。
きっかけ・・・。ゾロはふと、胸のたしぎの気の抜けた無表情な顔を眺めた。
一目見たその瞬間にたしぎはゾロに強烈な印象を与えた。
彼女はゾロの幼馴染にそっくりだった。いや、その幼馴染、くいなは幼い頃に亡くなっている。
仮に成長したくいながたしぎと似ているとは限らない。しかし、刀使いの剣士であるたしぎは
ゾロの中におぼろげに残るくいなの姿を映していた。
今となってはその相似は曖昧だ。
亡くなるその時までゾロに勝ちつづけたくいな。
倒す為にゾロを追い続けるたしぎ。
本質はまったく違う二人。しっかり者だったくいな。ぼんやりなたしぎ。
人生は分からない。そのくいなと似ていた筈のたしぎと今、想い合うようになっている。
ゾロは口元に薄く笑みを造った。
ただ、一つ、剣を持つ時のその直向な瞳だけは同じだ。
いつでもゾロを見下ろしていた幼いくいなと、いつでもゾロを挑むように見上げる
大人のたしぎが剣を構える姿が交錯した。
「くいな・・・。」
それは、唐突に声になってゾロの口から零れた。
胸にいたたしぎが弾かれたように目を上げた事で、ゾロはくいなの名を口にした事を自覚した。
責めるように見開かれた黒い瞳がまっすぐにゾロを射抜く。
ゾロは、ただ押し黙っていた。何を言えばいいのかまったく分からない。
重い沈黙と雨の音。ゾロの言葉は水溜りに投げ落とされた石がつくる波紋だった。
ゾロにとっては小さな。たしぎにとっては・・・。
たしぎの瞳が伏せられた。ゾロはその眼が反らされた事で露骨に安心して息を付く。

その事が彼女を傷付けたとはまったく気付かずに。
顔を見せずにたしぎはベッドから立ちあがるとコートを取り、愛刀『時雨』を腰のホルダーに差した。
突然、彼女の体温が消えた事でゾロは両手を持て余すとガリガリと頭を掻き、自分も
立ちあがってたしぎに近付いた。
気まずさと、ほんの少しの身勝手な安堵感。
たしぎの嫉妬で知る彼女の想い。
そんな小さな波で得る安心。
「おい。」
ゾロは素直に詫びる気でいた。後味の悪い別れ方をしたくはない。次はいつ逢えるのかまったく分からない。
だが、シャツのポケットから眼鏡を取り出し振りかえったその冷たい視線に、ゾロは凍り付いた。
今まで全く見た事のないその女の表情。
「何です?」
「悪かった。」
ゾロはまだ気が付いていなかった。自分が犯した事の重大さに。
失うかも知れない、という事に。
憮然とした表情の謝罪を、たしぎは聞き流した。興味さえ示さずに部屋のドアへと向かう。
小さな、波紋の筈だった。
「おい!」
ゾロはたしぎの腕を引いた。大人げのないたしぎの態度が腹立たしい。
たった一言、つい口から出た言葉ではないか。
怒るなら、口に出せばいい。自分を殴るなり泣くなりすればいい。
振りかえるたしぎの目は、静かで、そして冷たい。
「離してください。」
背筋を悪寒が滑り落ちた。初めて後悔が過る。
言い訳をしかけて開いた口を閉じた。
何を言えばいいのか分からない。ただ、たしぎの腕を掴んだまま、立ち尽くす。
白けた沈黙。外から聞こえる雨の音だけが狭い空間に響く。
「離してください。」
静かな声がもう一度告げた。冷酷な拒絶にゾロは低く呻く。
舌打ちをすると腕を乱暴に突き放した。
勝手にすればいい。
たしぎは一度壁にぶつかり、そのまま振り返りもせずにドアを抜けた。
後に残されたゾロは閉められた扉をただ見つめていた。
こんな別れ方をした事はなかった。
漠然とした不安に襲われ、ゾロは一つ頭を振るとベッドに腰掛けた。
あんなに過剰な反応をするたしぎが分からない。
たしぎは自分が彼の亡くなった幼馴染の『くいな』と似ている事をゾロから聞かされて知っている。
ゾロがくいなの名を呼んだ事で嫉妬しているのなら、泣くなり怒るなりすればいい。

感情の沈殿した、冷たい眼。返って来た拒絶。
ふいに薄寒い予感がじわじわと這い上がってくる。。
もしかしたらたしぎを傷付けたのかも知れない。
もしかしたらたしぎはもう、ゾロを追っては来ないかも知れない。
もしかしたらたしぎを失ったのかも知れない。
ゾロは弾かれたように立ちあがると、刀を取り走り出した。
まだ追い付く。まだ、大丈夫だ。
宿の階段を飛び降り、外へ出るとその後姿を探した。いない。
より強くなった雨の中を闇雲に二人が歩いて来た方へと走り出す。
この雨のせいで人影もまばらな町を泥の飛沫を上げ、ゾロは走った。
彼女の心に出来た、小さな波紋だと思いたかった。
もう一度会えればきっといつも通りだ。しかしそのもう一度がなかったら・・・。
漠然とした不安が焦りを呼ぶ。
降りしきる雨に目を凝らす。もう日も落ちている。闇と雨はたしぎの姿を隠してしまう。
港が近い。雨に混じって香る潮の匂い。
これ以上近付けば海軍の駐留地だ・・・。ゾロは足を止めた。
港からは灯りが立ち上っている。
海軍に捕まる訳にはいかない。海軍に捕まれば、ゾロの仲間は彼を救う為に無謀な行動を取るだろう。
自分の為に仲間を危険に晒す事はできない。
結局、お尋ね者の海賊である自分と、海軍曹長であるたしぎの関係が通常の恋人同士のようにある事は不可能だ。
今までそれでも繋いで来られたのは、お互いがその障害さえ乗り越える程強く惹かれ合っていたからなのだ。
ゾロは、自分の手で壊してしまった。
たしぎが彼を追わなくなった時点で逢う事さえできなくなる。
激しい雨が彼を責め立てた。
何の気のない一言が、微妙だった二人の関係を壊してしまった。
あれだけ確実に抱いていた身体。その柔らかさと温度。安堵した笑み。優しい手。
どれだけ離れていてもあった筈の信頼と確信が全てあやふやになる。
遠い港にぼんやりと霞んでいる巨大な船。その船体に浮かぶ海軍の標。
ゾロはその方向へと一歩踏み出した。もう少し行ける。彼女を探そう。この雨と闇が絶好の隠れ蓑になる。
彼女の背を見送った事で思い知る自覚。
たしぎを失う事は出来ない・・・。
ゾロが走り出しかけたその時、遠くの街灯の下に人影が浮かんだ。
たしぎだ。
小さな後姿。ゾロは縺れる足を踏み出した。何を言えばいいのか分からない。
ただこのまま逢えなくなる事には耐えられない。
土砂降りの雨に濡れるたしぎの後ろ姿がはっきりと見えてくる。
名前を呼ぼうとしたゾロは、咄嗟に身を建物の影に隠した。誰か来る。
暗がりの中に2つの赤い火種が揺れる。黒い傘を差した男が、たしぎの方へと向かってくる。
たしぎはその男に気付くと、言葉を交わした。だがゾロにその声は聞こえない。ただ
激しい雨音が地面に撥ね返る音だけが響いている。
男はたしぎの頭に手をやるとその髪を乱暴に撫で、自分の大きな胸にたしぎの身体を
受け止めた。
たしぎはその男の胸に顔を埋め、泣いていた。
男はたしぎに傘を差し掛けると、相変わらずたしぎの頭を大雑把に撫でている。
やがて二人は港に向かって歩き出し、闇に飲まれていった。
足元がガラガラと崩れ落ちる。ゾロはまるで幻を見たように呆然とその姿を見送った。
小さな波紋の筈だった。少なくとも、ゾロにとっては。
しかし傷付けた代償は支払われた。
身を焦がすような嫉妬が、ゾロを襲って歯軋りをする。
たしぎの気持ちを疑った事はなかった。愛されているのも知っていた。
だからこそ危険を侵してまでゾロに逢いに来たのだろう。
だからこそ彼女の定義では『悪』である海賊のゾロに、信念を曲げてまで抱かれたのだろう。
だがたしぎの中に誰か別の男が棲んでいる可能性がないと言えるのだろうか・・・。

スモーカーというのはあの男だろう。
たしぎがよく口にする名だ。彼女を育てた親代わりの上官。
じりじりと心臓が焼ける。ゾロと持つ刹那の時間の数百倍も、たしぎはあの男と過ごしているのだ。
あの男の前では、素直に泣くのだ・・・。
もう、やめたほうがいい。
ゾロは港に背を向け、雨を跳ね飛ばすと大股で歩き出した。
面倒なだけだ。女はいくらでもいる。不自由している方でもない。
たしぎが自分を追わなくなるなら好都合だ。逢わなければいずれ忘れるだろう。
ほんの少しの間、痛みを堪えればいい。
たしぎに惹かれたのは、彼女がくいなに似ていたからだ。
それ以上でも以下でもない。だからすぐに忘れられる。
ゾロはその言葉を呪文の様に心の中で繰り返した。


たしぎは船の自分の個室で濡れた服を着替えるとベッドにうつ伏せてシーツに顔を埋めた。
止まった筈の涙が、また溢れそうになる。
情けない。
何故こんなに傷付いてしまうのだろう。もっと平気でいたいのに。
結局ゾロは海賊で、いずれ裏切られるかも知れないと覚悟していた。
沈めていた感情は、スモーカーと会った事であっさり爆発してしまった。
父の様に、兄の様に自分を優しく、厳しく育ててくれた彼女の上官は涙の訳を聞かなかった。
失恋した事は分かっていただろう。
だが、相手の名は口が裂けても言えない・・・。
もしかしたら、スモーカーは知っているのかも知れない。
たしぎはどうにか起き上がると『時雨』を手にした。目を閉じればロロノア・ゾロの剣捌きがすぐに浮かぶ。
力強く、一分の隙さえもないその刀。まだ彼女に対してゾロは三本の刀を使う彼の技を見せたことは無かったが、
二刀流でも十分にたしぎを酔わせた。
彼の剣に憧れた。ロロノア・ゾロは悪党の海賊と知っていたのに。
そして何時の間にか彼自身にさえ惹かれた。
乱暴で、傲慢で、そして時折見せるぎこちない優しさ。
たしぎを抱き締める逞しい腕。初めて触れた時の真っ直ぐな眼。
でも、彼が抱いていたのは、見つめていたのはたしぎではなかった。
たしぎに似た、ゾロの大切な幼馴染。
離れ難かったあの甘い倦怠の中で彼の口からその名前を聞いた事で、たしぎの恋は終わったのだ。
愛されていると思いたかった。何時になるかは分からなかったが夢の果てには彼と共に生きたかった。
けれどそれは『くいな』の代わりにではない。
だからもう、終わらせなくてはいけない。
言葉の少ない彼が不器用に示した優しさは全てたしぎの物ではない。
たしぎを越えて、たしぎに似た『くいな』への優しさなのだ・・・。
黒い瞳にまた涙が溢れ出す。たしぎはシャツの袖でその涙を力一杯拭いた。
自分の愚かさがただ惨めだった。
好きになっていた。こんなに。こんなに。
別れる時は我慢できた。ゾロの前で泣きたくなかった。
それは卑怯だ。泣けばゾロは困るだろう。泣けば戸惑いながらも優しくするだろう。

でも誰に?
もう彼を追うのはやめよう。これ以上追っても無駄なのだ。
彼の剣に追い付く事も、彼の心に触れる事も出来ない。
彼は『くいな』の事は忘れなくても、たしぎの事は忘れるだろう・・・。
その事実を突き付けられる前に自分から手を離そう。彼は追っては来ない。
これは道を踏み外そうとした自分への罰なのだろう。
海兵として、信じるべき『正義』を全うする事。これからはその為に生きていこう。

「よし!」
たしぎは涙を拭いて立ちあがった。泣いてばかりはいられない。もっと腕を磨いても
っと力を付けて海賊や海賊狩りから奪
われた名刀を回収する。
その名刀が、罪のない人を斬らないように。呪われた血を吸わないように。
剣を振りたかったが、土砂降りの雨はまだ止まない。
少し考えて、船底の倉庫に行く事にした。停泊中なので倉庫の中は空に近い。
あそこなら剣を振るのに支障は無いはずだ。
ぎゅっと唇を結び、壁に取り付けられた鏡を見る。
そこには目許が赤く腫れた情けない顔が映っている。たしぎはその頬を両手で叩くように挟んだ。
口元に笑みを作る。大丈夫。
たしぎは『時雨』を掴むと、ドアを開けた。
が、勢い良く踏み出した途端に、何かにぶつかり部屋の中に押し戻され転倒した。
ドアが高い音を立てて閉まる。見上げたその姿に、たしぎは言葉を失った。
ロロノア・ゾロ。
ずぶ濡れの身体からは水が滴り落ちている。肩で荒い息を吐きながらゾロはたしぎを見下ろしている。
たしぎは、目を疑った。
ここは街中ではない。無人島でもなければ宿の中でもない。
海軍の戦艦の中だ。
「何故・・・。」
それ以上の言葉がでない。ゾロの身体から流れ落ちた水が瞬く間に小さな池を作る。

ゾロはまだ荒く息を付いている。
何という無茶をするのだろう。見つかればただでは済まない。
ましてやこの船にはスモーカーがいる。いくらゾロが剣の達人であっても『悪魔の実』の能力者である
スモーカーには敵わない。
「・・・悪かった。」
ようやく呼吸が少し落ち付くと、呆然と彼を見つめるたしぎに、ゾロは詫びた。
見張りが付いている正面から乗船する事は不可能だった。夜の海に入り、この船まで泳いで辿り着いた。
雨の中、夜の海を泳ぐことは自殺行為に等しい。
船乗りが決してしない行為だ。泳ぎの達者な者でも命を落とす可能性は十分にある。

しかし雨の音で見張りに気付かれる可能性も低くなる。停泊中で乗船している海兵の数が少ない事が幸いした。
船の構造は大体どれも似ている。居住区と思われる場所を探した所、たしぎが運良く出てきたのだ。
たしぎは我に返ると立ちあがり、ゾロに背を向けた。泣き出しそうだ。せっかく忘れようとしているのに
何故こんな風に現われるのだろう・・・。
「悪かった。」
ゾロはその小さな背中にもう一度言った。
もうやめようと思った。こんなにままならない状態を続けるのは不可能だ。
仲間の所へ戻ろうとした。
それなのに、背を向けた途端にきりきりと締め付けられる。自覚する痛みがたしぎを求めている。
もう、失う事など出来ない。
たしぎの背中が震えている。ゾロはずぶ濡れの頭を一つ振るとはっきりと言った。
「ちゃんと、お前に惚れてるから、こっち向け。たしぎ。」
差し出した両手の中に、振り返ったたしぎの細い身体が飛び込んでくる。ゾロは受け止めると、そっと抱き締めた。
たしぎは、声を殺して泣いている。傷付けてしまった。馬鹿な事をした。
泣いた事などなかったのに。どんな傷を負っても、痛みを背負っても、頑固に笑う女なのに。
「悪かった。」
ゾロは濡れた手でたしぎの髪を撫でると耳元でもう一度呟いた。
たしぎはゾロの胸にしがみ付き、何とか涙を止めようとして荒く息をついている。
たしぎの温度。たしぎの柔らかさ。
ただひたすら愛しい。
「私を、ちゃんと見て下さい・・・。」
たしぎのくぐもった声。ゾロは軽く彼女の背中を叩いた。
「悪かった。」
「・・・くいなさんにも失礼です。」
「ああ。そうだな。」
ゾロはたしぎを抱いた腕を緩めると、頭を傾けた。たしぎの額にゾロの頭がぶつかる。
髪から水が零れてたしぎの髪を濡らす。
「殴っていいぞ。」
ゾロの言葉にたしぎは濡れた瞳を上げた。
前髪の向こうの、俯いたゾロの顔。相変わらず憮然としている。
たしぎは一つため息を付いてゾロの胸から離れた。
「じゃあ、いきますよ。」
「おう。」
ゾロは顔を右に背けると泳いだせいで疲弊して倒れる寸前の身体に力を込める。
ドスっ!!
ずしりと重い痛みが腹部に響き、ゾロは思わずよろけた。
たしぎの右拳が彼の鳩尾に綺麗に入っている。
「おい!!」
「はい?」
思わぬ方への攻撃を食らったゾロは立ち直ると腹部をさすった。たしぎは澄ました顔をしている。
「普通、顔とか殴るんじゃねェのか、こういう時は。」
「殴っていいって言ったじゃないですか。」
「右フック入れる女がどこにいる!」
「ここにいます。」
じっと睨み合い、ふっと力を抜くと、二人は笑った。
どちらともなく腕が伸び、お互いの体温を確かめる。唇が重なり、切ない息が漏れる。
目が合うと照れた様に笑う。髪を撫で、濡れたゾロの身体を温めるようにたしぎが抱く。
満ちたりた愛しさ。
ふと力が抜けゾロは床に座りこんだ。
「悪ィ、寝るぞ。」
安心した途端に疲れが身体にのしかかってきた。たしぎは呆れ顔で笑う。
「見つかっても知りませんよ。」
ゾロは大欠伸をすると濡れたシャツを脱ぎ、たしぎに放った。
「そん時ゃお前を奪って逃げる。俺は海賊だぞ。」
たしぎはシャツをハンガーにかけるとタオルをゾロの頭に被せ、優しく拭く。
「スモーカーさんに怒られちゃいます。」
その名を出した瞬間にゾロの手がたしぎの肩を強い力で捕まえた。
「…何です?」
貫かれる様に厳しいゾロの視線に、たしぎは訳もなく動揺する。ゾロは一度口を開きかけ、
そのまま閉じると真一文字に唇を結び、顔を背ける。
「ロロノア?」
「俺の前でアイツの名前出すな。」
ゾロの意外な言葉に面食らい、たしぎは首を傾げる。感の鈍いたしぎにゾロは苛立ちながら舌打ちをし、
たしぎの鼻を思いきり摘んだ。
「イタっ!!」
「アイツの前で泣くんじゃねェ!泣くなら俺の前で泣け!」
そのまままたふい、と横を向く。たしぎは赤くなった鼻をさすると、はたと気が付いた。
「見てたんですか?!」
「見ちゃ悪い事してたのか?」
ああ言えばこう言う。たしぎは呆れかえった後、吹き出した。ゾロはますます仏頂面になる。
「何が可笑しい。」
「だって貴方が泣かせたのに。それにスモーカーさんは父のような人ですよ?」
言い返す言葉がない。ゾロは胸元に垂れ下がったタオルを顔に引き上げた。
こんな事を言わなければ分からないたしぎの鈍さに腹が立つ。
「親父だろうが兄貴だろうが、俺以外の男の前で泣いたりすんな。」
耳が熱い。タオルで隠していても、たしぎからもゾロが赤面しているのは十分に分かる。
たしぎは、床で照れ隠しに踏ん反り返っているゾロに笑みを零した。
ゾロの顔を覆っているタオルの両端を握り、ゾロの目の前に顔を近づける。
「殴っていいですよ。」
「殴れねェ事知ってて言ってんだろ。」
額と額が触れる。互いの前髪の色が混じり合い、奇妙な模様を造った。
軽く唇が触れ合う。愛しさを確認するように。
「分かったな?」
ゾロの手がたしぎの髪を緩く掴む。たしぎはゾロの深い色の目を見ると頷いた。
そして沈黙と微笑み。
たしぎはすっかり湿った冷たいタオルに気付き、ゾロの前から立ちあがった。
ベッドの上の棚から、乾いた新しいタオルを取りだし、ゾロに手渡そうとする。
が、振り返った時にはゾロは座ったままベッドにもたれて眠っていた。
たしぎはため息を付き、ゾロの身体をもう一度タオルで拭いてそのまま隣に座ると彼に寄りかかる。
夜が明ける前にゾロを起こさなければならない。彼と一緒に行くにはまだやり残した事が沢山有る。
ゾロの無防備な寝顔を見て、胸に小さな痛みが走った。
たしぎの双眸にまた薄く涙が浮かび、それを飲みこむ為に目をつむる。
小さな波紋。
決して消える事のない恐れと嫉妬がたしぎの中に、そしてゾロの中にも芽生えた。
お互いがお互いに対して小さな波紋だと思っているその乱れ。
また離れている時間にその波は嵐になるかも知れない。
しかし伴って襲う痛みは結局この男を好きである証明以外の何でもないのだ・・・。

たしぎは裸のゾロの上半身をタオルで包み優しく抱き締める。
ここまで来てくれた。初めてたしぎを追って来た。
この先、ゾロがたしぎを愛し続ける保証はどこにもない。
それでも・・・。
たしぎはゾロの額に優しく口付けると、小さく、細い声で囁いた。
「愛してます、ロロノア・・・。」

 

- 終わり -