No.31/かみん様


遭難


「か、海軍だあ!!」
グランド・ラインに入って何回目の事だろう。
海上で彼ら、『麦わらルフィ海賊団』を追う海軍に遭遇するのは珍しい事ではなくなった。
しかし、今日ばかりは状況が悪い。
彼らを乗せたキャラヴェル、ゴーイングメリー号は嵐の只中にいた。
うねる波に弄ばれ、舵をとり、帆を風向きや強さに合わせて畳む。
たった5人の海賊団に出来る事は限られている。
汗と叩き付ける雨に揉まれながら航海士であるナミの指示が飛ぶ。
彼らが三千万の懸賞金を賭けられた賞金首でも海の上でそれは何の強さの証明にもならない。
ただ必死に船を、仲間を、そして自身を守るために圧倒的な自然の脅威と戦う。
その稲光の中を、別の船影が浮かび上がった。
目が良いウソップの叫びが上がったその数十秒後、船影ははっきりと雨と波の幕の向こうに見えた。
船体に『MARINE』の文字。間違いない、海軍だ。
「こんな時に!!」
手早くロープを巻いていた料理人のサンジが舌打ちし、すっかり水浸しになった煙草を吐き捨てる。
「条件はアイツらも一緒よ!とにかくこの嵐から抜けるわ!」
吹き荒れる風に乗ってナミの声が耳を打つ。
「船は任せろ!ルフィ、ゾロ、お前らはヤツらの相手してくれ!!」
狙撃手のウソップが舵の方へ走りこむ。底を撃ちぬかれるような衝撃に一瞬全員の身体が浮かび上がる。
荒れ狂う海がこの小さな船を叩き壊そうと手薬煉を引いているのだ。
「任しとけ!!」
船長、モンキー・D・ルフィは両手の拳を合わせ、船尾に走り出す。
剣士、ロロノア・ゾロはそのルフィの後に続いた。
腰に巻いた命綱が邪魔だが、いざという時の為に決して外す事は出来ない。
ゾロはルフィの腰に紐が巻かれている事を確認する。彼らの船長は『悪魔の実』の能力と引き換えに
海に入った途端に身動きさえ取れなくなってしまう。
だが、ルフィ本人はその事を忘れがちだ。
こういう状況になると真っ先に走り出す。
船尾に到着すると海軍の船はすぐ目と鼻の先まで迫っている。彼らの船も波に揉まれてはいるがそもそもの重量が違う。
その船首に知った顔を見つけ、ゾロは刀を抜いた。
猛る風雨に晒される黒い短い髪。ゾロを真っ直ぐに射抜く漆黒の瞳。
2つの船の間が接近し、海兵が雄叫びをあげ次々にゴーイングメリー号に飛び移る。
その先頭に女はいた。海軍本部曹長、たしぎ。
殺到した海兵はざっと20人。
その中にルフィと同じ『悪魔の実』の能力を持つスモーカー大佐の姿はない。
嵐の中、海に転落するのを避けるためだろう。
「お前らもうちょっとヒマな時に来いよっ!!」
ルフィは間の抜けた怒鳴り声を上げる。スモーカーさえいなければ並みの海兵達がルフィやゾロに敵う訳もない。
問題は、あの女だけだ。
ゾロの真正面に女は立っていた。
その彼女の刀も既に抜かれている。
「ロロノア!勝負!」
たしぎからの一刀をゾロは左手の『雪走』で受け、右手で『三代鬼徹』を抜く。
「・・・精進してるじゃねえか!」
多方向から繰り出されるゾロの二刀流を、たしぎは愛刀『時雨』で必死にかわす。
恐ろしい程に研ぎ澄まされるその集中。雨の飛沫を上げ、三本の刀がぶつかり合う。
板張りの甲板は水に濡れて滑りやすい。そして、波がぶつかり、突き上げられる衝撃。
状況は最悪だ。
だが、二人の剣士は一歩も引かない。荒れ狂う風を引き裂き、斬剣は繰り出される。
荒い息遣いも、額に浮かぶ汗も全て風雨に流される。
ゾロは自ら攻めこむ事はなかった。この状況ではたしぎに傷を負わせないように闘うのは難しい。
いつもは軽くあしらうのだが、今回はその余裕もない。
うかつに前に出れば彼女を傷付ける事になる。歯痒い気はするのだが、それは避けたかった。
更に命綱の長さを考えながらの動きである。段々とゾロが攻め込まれる体勢になっていた。
「何故逃げる!」
そのゾロの態度がたしぎの激昂を誘った。
甲板を蹴りたしぎの剣が振り上げられる。ゾロは目を疑った。この嵐の中で飛びかかるのは正気の沙汰ではない。
「馬鹿野郎っ!!」
まさにその刹那。激しい衝撃がゴーイングメリー号を襲った。
波が岩の塊のような力で船底を覆す。水面に垂直に跳ねる船体。
甲板を蹴ったたしぎの身体は、着地する場所を無くしてゾロから離れると、ふわりと浮き上がった。
二人の目が、互いに信じられない物を見るように見開かれる。
「ゾロ!!」
絶叫と共に、ルフィは海に落ちかけた海兵達を彼等の船へと投げ飛ばす。
その声にゾロは離れていくたしぎに向かって自らも甲板を蹴った。
嵐に揉まれながら海面に落下しようとするたしぎの身体に手を伸ばす。
命綱が限界を訴え、ゾロの身体を引き止めた。ゾロは、その綱を迷いなく断ち切ると、
たしぎの身体を庇う様に抱き、瞬時に彼女の剣をその柄に収めた。
そして、叩きつけられるような衝撃。
二人の身体は荒れ狂う波の中へと瞬く間に吸いこまれた。


さらさらと、心地良い風が頬をくすぐる。潮の匂い。波の音。
そろそろ起きなければ上司の怒鳴り声が飛んできそうだ。
でも、あと少し、あと少しだけ・・・。
「おい。」
聞きなれない声に、たしぎはふと目を開いた。目の前の白い砂。明るい太陽。そして、忘れられない男の顔。
「気が付いたか。」
たしぎは覚醒すると勢い良く起きあがった。
広がる静かな海。眠りこけていたのは自分のベッドではなく、白い砂浜だった。
そして。自分を覗きこむ無愛想な深い色の眼。
「ロロノア!」
「おう。」
返事をした男は心なしかいつもより顔色が悪い。
何故、どうしてこんな所に・・・。たしぎは記憶を整理し、唐突に全てを思い出した。
嵐の中、海に投げ出されたのだ。フラッシュが点滅するように自分を追って甲板を蹴ったゾロの姿が蘇る。
「ここは一体・・・!どうして貴方まで!」
たしぎは不安を誤魔化すように強く聞いた。その矢継ぎ早の質問を、ゾロは右手を少し上げて遮ると呻く。
「知るか。俺だって今気がついたトコだ。」
ゾロの息は荒い。たしぎはジャケットのポケットを探る。嵐のせいで眼鏡をかけずにいたのが幸いしたようだ。
取り出した眼鏡をかけるとぼやけていた視界が鮮明になる。ふと、彼の背後に目をやった。
白い砂浜にはゾロがたしぎの元へ歩いて来た20メートルの足跡と赤い染み。
血だ。
「ロロノア!」
たしぎは弾かれたように立ち上がると座っているゾロの背中へ廻った。
思わず息を呑む。ゾロの背中のシャツは破れ、血が滲んでいる。
鉄の錆びたような匂いが鼻を突く。ゾロの背中はボロボロに破けている。
その広い背の皮は至るところが削がれ、血が零れている。
「何かぶつかったみてェだな。起き上がったらまた血が出てきやがった。」
ゾロは頑固に平静を装う。が、顔色の悪さは誤魔化せない。
たしぎは素早く周囲を見渡した。浜には漁をする時にでも使うのだろう、網の乗った小船が2つ。
無人島ではない。大きな島ではないようだが、ゾロを休ませる事と怪我の治療をしなくてはならない。
たしぎはゾロの背に触れた。骨は折れていない。ただ、熱が高い。
普段なら何か噛み付いて来そうなゾロが、今は大人しくたしぎにされるままになっている。
「ここにいて下さい。」
自分の剣とゾロの三本の剣を確認した後、たしぎは島の奥へと走り出した。
船があるという事は村も遠くはないはずだ。

ゾロは一人砂浜に座りこんでいた。痛みもあるが、とにかく何かがのしかかったように身体が重い。
たしぎを抱きかかえたまま海面に落下し、その後の事はおぼろげにしか分からない。
海の中で上下の感覚は失われていた。気絶したたしぎの身体に残ったロープを結び付け必死で海面を目指した。
明るい海面に近付いた時、何かに背後から激突されゾロも意識を失った。
生きていた。しかも二人共。離されずにここまで辿り着けたのは奇跡に近い。
夢の半ばにあって命を投げ出すような真似をしてしまった。
しかし、あの場では何も考えられなかった。身体が勝手に反応した。
両手を軽く握る。筋は切れていないようだ。
仲間達は無事だろうか。過った不安をゾロは笑い飛ばした。常人離れした感覚と実力と運の持ち主が船長だ。
まず彼らが命を落とす事はないだろう。そして向こうもそう思っているに違いない。
今ごろ彼を探している筈だ。
もし、無事でないとすればたしぎの乗っていた海軍の船の方だろう。
たしぎは、どうするつもりなのだろう。
この島に海軍の駐在がいたとなるとまずい。この状態でその追撃をかわせるかどうかは疑問だ。
出切る事ならたしぎを斬らずにすめばいい・・・。
そう考えてゾロは苦い笑みを口の端に浮かべた。
彼の亡くなった幼馴染、くいなに似たたしぎ。普段であれば自分に剣を向けた者を簡単に許すゾロではなかった。
相手にならぬ程の弱者でもない限り、彼は女であろうと斬った。
たしぎの腕は、彼が相手をした剣士の中でも10本の指に入る。
しかも彼女はゾロを斬るために追っているのだ。そしてくいなの残した大業物の名刀『和道一文字』を回収する為に。
だが、ゾロは彼女を斬る事が出来ない。
くいなに似ているからなのか。
それともあの貫くような黒い真っ直ぐな瞳のせいなのか・・・・。
「ロロノアー!」
遠くから聞こえるたしぎの声にゾロは我に返るとそちらへとゆっくり眼を向けた。
たしぎは砂浜に足を取られながらゾロに向かって一直線に走って来る。
「わっ!」
ゾロの目の前でよろけるとそのまま砂に頭から滑りこんだ。ゾロは唖然とその姿を見つめている。
「だ、大丈夫か?」
人の心配をする余裕はまったくないのだが反射的に口からその言葉が出た。
たしぎは起き上がると顔についた砂を払い落とし、転んだ衝撃で飛ばされた眼鏡を探している。
「あ、大丈夫です。慣れてますから。」
眼鏡を掛け直し、屈託なく笑う。
笑った顔を見るのは、初めてローグタウンで出会った時以来だ・・・。
奇妙なその感覚に居心地の悪さを感じて、ゾロは眼を反らした。たしぎは構わずに続ける。
「小さいですが村がすぐこの上にありました。空家を貸してくれるように手配したのでそちらに移りましょう。」
ゾロはたしぎの手回しの良さに眼を見張る。失礼な言い草だがこういう緊急自体に対応できるタイプには見えない。
「随分手際がいいな。」
ゾロの言葉にたしぎはまた笑った。
「もたもたすると上司に怒られちゃうので。」
ふん、と鼻を鳴らすとゾロは起き上がる為に大儀そうに片腕を砂につく。たしぎは彼が起き上がるのを
助けながら、思い出したように言った。
「この島の海軍の駐在へは連絡しませんから。」
何とか起き上がったゾロは眉を上げ、たしぎを探る目で見る。
「・・・助けてもらったのにそんな恩知らずな事出来ません。」
頑固な女。
ゾロはにやりと笑った。ゾロの「甘い」という声が聞こえた気がして、たしぎはすぐに表情を引き締める。
「そのかわり!もし貴方の仲間よりもスモーカーさんの船が先にここを見付けたら、その時は貴方を逮捕します。」
「了解。」
果たして何日後になるだろうか。ゾロはあの時の嵐が嘘のような突き抜ける青空を見上げる。
たしぎは決意表明をしてほっとしたのか、また和やかな顔に戻った。
「じゃあ行きましょう。つかまって下さい。」
「おう。」
立っているのもやっとな状態だったので、たしぎの申し出はありがたかった。が。
「どうしました?」
まじまじと自分を見つめたまま動こうとしないゾロにたしぎが尋ねる。
ゾロは彼女につかまろうとした右手を開いたり握ったりした後、一人で歩き出した。
「ロロノア?」
「一人で歩ける。」
どこにつかまれというのだ、あの細い身体の。
うかつに寄りかかれば一緒に倒れてしまいそうだ。だがそれを口に出せばたしぎは怒り出すだろう。
痛む身体に無理矢理鞭を打ってゾロはたしぎの示した方へと足を出した。
たしぎはゾロの奇妙な反応に首を傾げながら後に続く。
頑固な人。
砂に落ち続けるゾロの血を見て眉を寄せた。
浜辺の奥の林を抜けると、確かにそこは小さな集落だった。色鮮やかなこの島独特な衣服を身に付けた村人達が
興味深げに二人の剣士を見比べている。
たしぎはその一人一人にいちいち挨拶をながら村外れの木々に囲まれた一軒家を目指す。
ゾロは朦朧とする意識をなんとか保ちながら、歩を進める毎に重くなる足を前へと踏み出す。
その小さな家に辿り着くとたしぎがドアを開けた。
台所と恐らく風呂場であろうドアと、テーブル。ベッドが一つ。小綺麗に整頓されている。
「早く休んで下さい。」
手早くゾロの刀を外すとたしぎがベッドへと促す。
ゾロの気力が続いたのはここまでだった。ベッドに前のめりに突っ伏すと瞬く間に熟睡状態に入る。
たしぎはため息を付いてから踵を返し、医者を呼ぶ為に外へと出て行った。

掌が背中に触れている。
優しい暖かさ。ふわふわと浮かぶ心地よさ。
記憶はないが、母親というものがあるのならこういう感じかも知れない。
ふと眼を開けた。見慣れない壁。
塗り薬の匂いが鼻をつく。横向きに寝転んでいたゾロは、ぼんやりと背後へ目線を動かした。
たしぎがいる。
彼女が彼の背中に薬を塗っているのだ。自分が夢現の中で感じていたものが気恥ずかしくなり、
ゾロはまた木の壁に目を戻した。
「ロロノア?」
「・・・おう。」
呼びかけられ、返事をしない訳にもいかずに口の中で呟く。明らかにほっとしたたしぎの気配。
「よかった。丸2日も眠ったままだったんですよ。」
2日・・・。まだここにいる、という事はルフィ達も海軍もここには辿り着いていないという事か。
ゾロは身体を起こした。あちこちが悲鳴をあげている。
自分の愛刀を眼で探した。三本の彼の刀とたしぎの『時雨』がベッドの横の壁にきちんと立て掛けられている。
たしぎはゾロがベッドに座るのを助けた後、不器用に包帯を巻き直し、丸薬と水の入ったコップを手渡した。
「抗生物質です。飲んで下さい。この村には医者がいないそうなので私の治療で申し訳ないんですけど・・・。」
抗生物質・・・。ゾロは掌でその薬を転がした。無医村ならばかなり高価な薬の筈だ。家を貸してくれた事といい、
村人達が好意でしてくれる事にしては行き過ぎている。
たしぎはゾロの疑問を読みとって笑顔を浮かべた。
「ちゃんと代価は払ってあるので大丈夫です。」
「代価?」
あの嵐の中の戦闘状態でたしぎは剣以外の荷物を持っていなかったはずだ。勿論、ゾロも同じである。
「はい。碧石を一つ。」
宝石だ。しかも碧玉ならば小さな石でも安くはない。飾り気のないたしぎがそんな物を持っているとは。
ゾロの訝しげな表情に、たしぎは言葉を継いだ。
「祖母の形見だそうです。尤も、覚えていませんが。ポケットに入っていて助かりました。」
事も無げに言うと、ゾロの食事を用意する為に台所へと向かう。
「・・・大事な物だったんじゃねェのか?」
薬を掌で弄んだまま、ゾロは呟くように聞いた。たしぎは湯気の立った食事の乗ったトレーを持って来ると
ベッドの横にある椅子に座る。
薬を飲んでいないゾロに呆れたような笑みを向けた。
「生きてる人の方が大事でしょう?」
引きこまれるような嘘のない、真っ直ぐな黒い瞳。
「薬を飲んでご飯を食べて、早く良くなって下さい。いつまでたっても勝負出来ないじゃないですか。」
ゾロはたしぎから眼を掌へ移し、その薬を飲みこんだ。基本的に怪我も病気も寝て治すのが信条で
普段薬など飲む事はないがそうも言えない。
ゾロが薬を飲んだのをたしぎはほっとした表情で見守ると、暖かいスープをスプーンで掬いゾロの前に差し出す。
「はいどうぞ。病人食で申し訳ないですが。」
目の前に出されたスプーンを見てゾロは押し黙った。たしぎは首を傾げた後、はたと思い直す。
「あ、何だか新婚さんみたいですね。あはは。」
「自分で食うから貸してくれ。」
ゾロは左手で激しく痛む頭を押さえると右手をたしぎに差し出した。どうもペースが掴めない。
まだ剣で挑みかかってくれた方が気が楽だ。
たしぎはゾロの膝の上にトレーを置き、スプーンを手渡した。
「口に合うか分かりませんがどうぞ。・・・これしか作れないんです、私。」
ゾロは無言でスプーンに口を付けた。彼の船の料理人の作る物には遥かに及ばないが温かいスープが全身に染み渡る。
食欲はあまりなかったが、物も言わずにゾロはそのスープを食べつくした。
空になった皿を見てたしぎは満足そうな笑みを浮かべ、トレーを台所へ下げた。
いつもは親の仇のような目で見られているだけに、たしぎの柔らかい態度にゾロは戸惑っていた。
今の自分はたしぎにとって、守るべき弱者なのだろう。その不快感にゾロは唇を歪める。
が、結局たしぎにどうこう言える訳でもない。
とにかく、調子が狂うのだ。
ゾロは大欠伸をするとまたベッドへ横になる。背中の傷のせいで仰向けには眠れないのが辛い。
考えるのは苦手だ。どの道あと少しの辛抱だ。
ルフィ達が迎えに来るまでは大人しくしておいた方がいいだろう。
普段飲みつけない薬を飲んだよいか、ひどく眠い。
暖かい羊水のような優しい睡魔に、体が侵食されていく・・・。
たしぎの手が、そっと額に触れる。抗おうにも身体が麻痺してしまったように動かない。
ただ、その手が心地良くて、懐かしくて・・・。
まだ熱の高いゾロの額に触れ、たしぎは眉をしかめた。
このまま、彼の仲間が来る事を待っていていいのだろうか。
海軍の駐在所はこの村から3つ向こうの町にある。
そこから海軍本部に連絡が取れれば、スモーカーはすぐに迎えに来るだろう。
彼女もゾロ同様、自分の上司があれしきの嵐に散る事など微塵も考えてはいない。
情報網を持たないゾロの仲間が果たしてこの島を探し出す事ができるのだろうか。
怪我を負っているゾロをこのまま医療施設のないこの村に留めていいのだろうか・・・。
荒い呼吸を繰り返すゾロの額をぎこちなく撫でると、たしぎはもう一度溜息をついた。
明日。明日までに彼らの船が来なければ、海軍に連絡を取ろう。
ゾロは捕まるだろう。しかし。
「死んでしまったら、終わってしまう。」
たしぎは小さく呟くと、自分を納得させるように頷いた。


窓から、薄く月光が差しこんでいる。
色のない闇の世界。遠くから微かに聞こえる潮騒。
ベッドの横に寄りかかって眠っていたたしぎは目を覚ますと、自らの刀に手を伸ばした。
ゾロの不規則な荒い息。月からの頼りない光が、彼の顔色の悪さを際立たせる。
きつく寄せられた眉。たしぎはゾロの枕元に立つと、彼女の愛刀『時雨』を手にその姿を見下ろしている。
ざわり、と彼女の背中を駆け上る悪寒。
たしぎはゾロに背を向け、その家のドアを静かに開くと外へ出た。
何もかもが眠っている静かな夜。
「・・・出てきなさい。」
小屋を囲む木々が、海から来る風に揺れている。その動きがにわかに激しさを増し,
先程までの沈滞した静けさの中に殺気が走る。
─40人─
たしぎは『時雨』を引き抜く。月光に美しい弧を描き、刀身は構えられたその位置にぴたりと止まった。
「遭難した二人連れの片割れだな。」
ゆらりと影が揺れ、一人、また一人と姿を現す。
海賊・・・。しかしグランドラインを渡るような大海賊ではない。近辺の島を巡る地の海賊だろう。
「その遭難者に何の用です?ここには貴方達が望む物など何もありません。」
たしぎの声に男達はにやにやと笑いを浮かべる。この海賊の頭なのだろう、背の高い男が親指の爪を弾くと、
月の明かりに青く光る物が高く上がった。
たしぎは思わずその小さな石に目を奪われる。
碧石・・・。たしぎが村人に譲り渡したものだ。
男は落ちてきた石を掴むと、指で摘み、彼女に突き出した。
「こいつはテメェがこの村の奴らに渡したモンだな。」
彼らは島々を渡り、物品の売買も行っている。
たしぎは自らの迂闊さに奥歯を噛んだ。
村人が彼らにあの石を売ったのだろう。
こんな辺境の村で高価な宝石を出せば彼らの野心を駆り立てるのは当然ではないか。
海賊頭の男は余裕の笑みを口元に貼り付けたまま、たしぎの返事を待たずにもう一度口を開いた。
「持ってるモンを全部出しな。命は助けてやる。」
何を言っても無駄だろう。一戦は避けられない。苦しそうなゾロの姿が頭を過る。
なんとか一人で凌がなくてはならない。
そのたしぎの気配に海賊達も剣を抜く。頭はフンと鼻を鳴らすと地面に唾を吐いた。
「女の刀使いか、反吐が出そうだぜ。」
男が顎をしゃくると周りの海賊達が一斉にたしぎに殺到する。刹那、舞いあがる鮮血。
動きを縛られた男達が次々に地面に崩れ落ちる。
月下の女剣士は刀の一振りすると頭の男を静かに睨んだ。
「このまま帰りなさい。貴方達の望む物は何一つありません。」
一瞬、息を飲み怖気づく気配が残された海賊達の間を駈け抜けた。が、頭が一瞥するとその様子はうやむやになり、
じりじりとたしぎの周りを取り囲む円を狭めていく。
たしぎは『時雨』を構えなおした。4人は斬った。出来る事ならこれ以上の怪我人を出したくはない。
しかし、彼らは引かないだろう。ふと、自嘲する。この甘さが、弱さなのだろうか・・・。
雄叫びと共にまた5人の海賊が彼女に剣を振り上げる。
迎え撃つ彼女の動きは彼らよりも数段速い。瞬く間に男達は血に塗れ、苦悶の声を上げると地面に這いつくばる。
海賊頭は歯軋りをすると、ふとたしぎの刀へ目をやった。
途端にまた残忍な笑みを浮かべる。
「そいつは、業物『時雨』だな?!150万は下らねェ。」
大切な愛刀を値踏みされた事に憤りを感じながらもたしぎは努めて冷静であろうとした。
状況は決して良くはない。小屋にいるゾロの方へ彼らの関心が向かわないようにしなくてはならない。
この頭は刀に関しては目利きのようだ。あの小屋にはゾロの持つ三本の刀がある。
その内一本はグランドラインにおいてもそう目にかかる事のできない大業物『和道一文字』だ。
あの刀はこの田舎海賊達でなくとも垂涎の品だ。
しかし、頭は一瞬たしぎが走らせた目線を見逃さなかった。
「おい女ァ、あの小屋には大事なモンがあるらしいなぁ。」
男の声に海賊の何人かが小屋へと走り出す。たしぎはそれを追い、前に廻りこむと刀を構える。
「怪我人が寝ているだけです。引きなさい!」
男達はたしぎの剣幕に足を止めた。しかし海賊頭は声を張り上げた。
「女ァ!!その刀を渡せ!」
目をやったたしぎは愕然とした。
大砲・・・。大きな物ではないが、黒く不気味に光るその狙いはゾロが眠っている小屋へ向けられている。
松明を持った男が、その大砲の横に控え頭の命令一つであの小さな建物を吹き飛ばそうと待ち構えている。
「刀をよこしな。」
じりじりと追い詰められる。どうする、どうしたらいい・・・?
甘いと、笑われるかも知れない。上司の鉄拳が飛んで来るかも知れない。でも・・・。
たしぎはふ、と全身から力を抜くと、刀を鞘に収め、腰から抜いた。
前に真っ直ぐに差し出した『時雨』を海賊の一人が引っ手繰り、頭へ渡す。
頭はその刀身を引き抜き、満足げな笑みを浮かべる。
「ようし、手前等!!男は殺せ!中にあるお宝を探し出せぃ!」
男の怒鳴り声に海賊達は喚声を上げ小屋に殺到する。たしぎはその二、三人を何とか体術で倒したがとても追い付かない。
彼らを追おうとしたその時、後ろから首を掴まれ、持ち上げられた。
息が詰まる。必死でその手を振り解こうとするがびくともしない。
海賊頭はたしぎの首を片手で軽々と持ち上げ、吐き捨てた。
「ふん、女が刀持つなんざ宝の持ち腐れだ。血を吸ってこそ刀は輝く。
テメエみてぇなイキがった女を見るとムシャクシャするぜ。」
反論しようにも呼吸が困難になり、意識が遠のく。こんな男には負けたくないのに。
「こういう刀は俺のような剣士に相応しい。」
片方の手で『時雨』を抜き、うっとりと呟いた。
手下の海賊達は小屋のドアを蹴破り、中へと踏みこんで行く。
─ロロノア!!─
今の彼では一溜まりもない筈だ。まだ歩く事さえ出来ないのに・・・!
激しく物が倒れる音が響いた後、数人の海賊がバタバタと小屋を飛び出した。
「お、お頭ぁ!!」
その背後から人の形をした塊が飛び出し、情けない声を上げた海賊の背中にぶつかると地面に落ちる。1つ、また1つ。
血まみれになった、海賊の骸が・・・。
視線が釘付けられたドアから、黒い影がゆっくりと現われた。
頭に巻かれた黒い手拭い。その両腕に握られた2本の刀。
その場にいた全員がごくりと出てもいない唾を呑み、汗を拭う。
禍々しいその死神の如き姿が、蒼い光の元に晒される。
イースト・ブルーの魔獣と呼ばれた男、ロロノア・ゾロは一つ欠伸をすると肩を鳴らし、指を曲げると挑発した。
「面倒くせェ、まとめて来い。」
悲鳴じみた喚声と共に、海賊達がゾロに殺到する。兵法の基本から言って、20人を越える海賊
たった1人の剣士では勝負にならない筈だ。
無論、剣士の負けだ。しかし。
それがただの剣士ではなかったら。
あまりに圧倒的な力の差。振り下ろす刀は全て宙を斬り、跳ね飛ばされ、気が付く事も許されずに
鮮血を吹き上げながら命をもぎ取られていく。
返り血を浴びるその姿は、正に魔獣。
断末魔の呻きのみが月夜の静寂に細く響く。
ゾロは刀を一振りし、血を飛ばした。
「・・・何人かは死んだな。」
冷酷な呪いのような宣告。海賊頭は物も言わずにたしぎの首を掴む腕に力をこめた。
いや、その厚い唇からは何も言葉が出なかった。
こんなに恐ろしい男を、見た事があっただろうか。まるで悪夢のようだ。
ゾロは海賊頭に目をやると、そちらへ一歩を踏み出した。
そのゾロの動きに弾かれたように海賊頭は後退さり、たしぎの身体を盾にした。
「く、来るな!!この女がどうなってもいいのか?!」
たしぎの胸元に『時雨』の剣先を押し付ける。隠せない手の震えのせいで刀身がたしぎの腕を翳め、
血が『時雨』を伝い地面に落ちた。
恐怖に荒い息をつく海賊頭は習慣からゾロの両手の刀に目をやり、驚愕した。
右手には業物『鬼徹』。左手には良業物『雪走』。そして腰の一刀は・・・大業物『和道一文字』!!
宝の山を背負った獲物がいる!!
海賊頭は息を飲み、欲に眩んだ笑みを浮かべるとぐったりとしたたしぎの身体にぴたりと
『時雨』を当てる。震えは止まっていた。
あれだけのお宝があれば、遊んで暮らしていける。
「女を助けて欲しけりゃ、刀を寄越しな。」
ゾロはうんざりした表情で溜息をつく。実際、早く終わらせてもう一眠りしたかった。
薬のせいでまだ頭がぼんやりしている。何という事か、踏みこまれるまでまったく目が覚めなかった。
傷の痛みも引いているが感覚がひどく鈍い。
海賊頭の腰に差された刀を指差し、ゾロは低く言い放った。
「手前ェは刀使いの剣士だろうが。剣で勝負しろよ。手前ェが勝ったらくれてやる。」
男はそのゾロの言葉を笑い飛ばす。
「冗談はやめな!刀はな、斬るために使うんだよ、斬り合うためじゃねェ!言われた通りに刀を寄越せ!女ァ殺すぞ!」
「・・・ロロノア!刀を、渡しては、ダメ・・・!!」
ふいに覚醒したたしぎが海賊頭の太い腕に爪を立て、声を絞り出す。肉を抉る痛みに男は眉をしかめ、
たしぎの身体を乱暴に揺さぶった。
「このアマァ!!」
「やりたきゃやれよ。」
ゾロの冷徹な声に、海賊頭の動きが止まった。たしぎは完全に気を失っている。
「俺とその女は何の関係もない。殺したけりゃ殺せ。ただしその後確実に俺がお前を殺してやる。」
ゾロの目が男を貫く。滑り落ちる恐怖に海賊頭は全身の血が地面に吸い取られるような錯覚に陥った。
「と、言いたいところだけどな。」
ゾロの両手の刀が美しい軌道を描くと鞘に収まる。鞘ごと三本の刀を引き抜きゾロはそれを地面へ置いた。
「そいつには色々借りが出来ちまった。目の前で殺されたら寝覚めが悪い。」
海賊頭はもうゾロの声など耳に入っていない。ただ、目の前に無造作に置かれた三本の刀に神経が集中していた。
もうこれで、しみったれた海賊生活ともおさらばだ・・・!
海賊頭の手がまさにゾロの三本の愛刀を掴もうとしたその時、遥かゾロの後方から空気を裂いて飛んできた鉄拳に
彼はその角張った顎を砕かれた。
薔薇色の夢を見たまま、海賊頭の身体は地面に沈んだ。
投げ出されたたしぎの身体を何とか受け止めるとゾロは不満げに低く怒鳴る。
「遅ェ!」
「ワリィ!」
言葉程には明らかに悪いと思っていない笑顔。たった今繰り出したパンチの勢いで曲がった
麦わら帽子を直しながら、ルフィがゾロに手を上げる。
「呆れた、ホントにいたわ。」
そのルフィの後ろから、ナミとウソップ、サンジが続いて走って来る。
「な?いただろ?」
ルフィは胸を張る。彼らは海流を読みながらこの近辺の島を探索していたのだが、突然、ルフィが
この島を指し「ゾロがいる」と言い張ったのだ。
他の村々を探していたせいでこんな深夜になってしまった。
ゾロはたしぎをその場にそっと寝かせると大の字になって倒れている海賊頭の襟首を掴み頬を2、3度張った。
低い呻き声をあげ、海賊頭は覚醒した。瞬間、ギクリと動きを止める。
「さっさとあいつら連れて島から出て行け。もうすぐこの島に海軍本部の人間が来る。
しばらくここには寄るな。いいな?!」
海賊頭はただただ恐怖に何度も頷くと傷付いた仲間を連れ、船のある浜へ大慌てで逃げ出した。
「へぇ、田舎の海賊だと思ったけど、結構な物持ってるわ。」
自分の刀を腰に差し、たしぎの『時雨』を鞘に収めたゾロはナミの声に振り返った。彼女の掌には碧玉が転がっている。
ゾロは無言でナミに手を差し出した。
「・・・何よ。」
「そいつはだめだ。寄越せ。」
不満そうなナミに舌打ちするとゾロはあらぬ方向を睨み付ける。
「それはあいつのだ。」
きょとん、とした後、ナミはからかう表情を浮かべ、差し出された手に碧石をのせた。
「ふぅん、そぉなんだぁ。」
予想通りの反応にゾロはムスっと口元を歪める。ナミはそのゾロの反応が可笑しくて、
何も分かっていないルフィの肩を叩きながら笑っている。
サンジが気を失ったたしぎに近付き、膝を付いた。
「・・・何してやがる。」
「こんな所にレディーを寝かせとく訳にいかねぇだろうが。」
ゾロの問いに目を上げると当然とばかりに言う。
「いい。」
「ぁん?」
ぐったりとしたたしぎに伸ばしかけたサンジの手を掴むとゾロは口を真一文字に結び、サンジと睨み合った。
「いいっつってんだ、このラブコック!」
「こんなとこに寝かせといたら可哀想だろうが、このクサレ剣士!」
ナミは相変わらず笑いが止まらない。何となく事情を察したウソップも、
笑いを堪えられずににやにやと二人を見守っている。
ルフィは状況が分からず、サンジとゾロを見比べている。
ふと、ゾロの視線がサンジから反れた。頭に巻いていた手拭いを無造作に引き下ろすとぼそりと呟く。
「俺が運ぶから、いい。」
サンジの目が一瞬点になり、そのまま吹き出すと遠慮なく地面を叩いて笑い出す。
ゾロは笑い転げる彼の仲間を歯軋りして睨み付け、意識のないたしぎの身体を抱き上げた。
心で散々悪態をつき、小屋のドアを蹴り飛ばす。
先刻の戦闘で床には血が溜まっている。この部屋に寝かせておいていいのか判断がつかないが、
とりあえず無傷のベッドにたしぎをそっとおろした。
碧石と『時雨』を彼女の手の届く所へ置く。
次に会えばまた敵同士。剣を交える事になるだろう。
あの柔らかい笑顔に会えるのはこの先いつになるのか。
たしぎの細い首には先刻の海賊の指の跡が月明かりの下でもくっきりと見て取れる。
ゾロはベッドに腰をおろすと、躊躇った後その首にそっと触れそのままたしぎの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「・・・またな。」
ふ、と笑みを浮かべ立ちあがるとゾロはたしぎに背を向けた。
彼をからかおうと待ち構えている仲間達の元へと戻る為に。

 

- 終わり -