No.196/おはぎ様


砂塵


事情はよく知らねえが、戻って右だと言われたので仕方なく海兵たちの所からきびすを返して右に曲がった。戦いの音は益々激しく、風に混じる血の臭いは色さえ見えるほどに濃さを増している。
(……なんだってんだ、一体)
走りながら思うのは、たった今のこと。
俺たちを捕まえようとする、敵だとばかり思っていた海兵がどうして道なんぞ教えてくれたのか。いきなり俺たちが、正義感に溢れた善人に生まれ変わった訳ではない。海兵もそんな可能性を考えるほど愚かではないだろう。何処まで行っても、海賊は海賊だ。
あいつらだけが海軍を裏切って……、などということもあり得ない。あいつらが俺の顔と名前を知っていた以上、それはつまり、上の方針でそう決められたから、ということに他ならない。ということは、海軍が組織ぐるみで俺たちを支援してくれているということだ。
(何だってんだ、一体)
もう一度、俺は胸中で呟いた。
あの海兵たちの上に立つ人間なら知っている。葉巻をふかしてばかりのおっさんの、三白眼と低い声が頭を過ぎった。なぜ助けた。屈辱だ。そう激高する姿に、部下も部下なら上司も上司だと内心あきれた覚えがある。
助けてやったときは確かに見逃すと言っていたが、ここまでの協力を申し出るとは思わなかった。らしくない。あの男ならむしろ、遠巻きに事態を眺め、決着が付く直前に乗り込んで主導権を収めてしまうだろう。
それを姑息だ、卑怯だという訳ではないが、海軍とはそういうものだ。
なら……、どういうことだ?
考えつつ走っているので、殆ど道のことなど考えていなかった。ただ、「右」と言われたことだけは頭に入れて、角を見るたびに右に曲がってみる。
(あの男じゃねえとしたら……誰だ?)
海兵を纏める誰かが、方針を変え、その誰かが指示を出したのだ。俺たちを援護しろと。何のために?
ここへ来てることが判ってる階級持ちは二人だ。
大佐と、あと一人。

────あと、一人。

そこまで思考を伸ばすと、胸の中に焼き付くように苦いものが広がった。俺は渋い顔で呼気を飲み込む。必要以上に大きな音を立て、喉が鳴った。名前は覚えてなぞいないが、忘れようもない顔の……女。何もかもが俺を苛つかせる、腹立たしい女。
この島へ来ていることは知っている。首都まで乗り込んで来ているかどうかは知らないが、あいつはこの島に来ている。
(ロロノア・ゾロ!)
聞くはずのない声がまた聞こえた。
こみ上げてくる名状しがたい動揺に、口腔がざらつく。思い浮かぶのは抜刀しかかった女の姿だった。俺を見据え、怒りを顕わにし、肩をふるわせて闘争心をむき出しにしている。その為かそれ故にか、澄んだ黒灰色の眼差し。嵐の色の目をした女。
(また、会いましたね)
もう二度と会いたくないと思っていたはずのその女は、なぜか酷く懐かしくさえ感じられた。以前より髪が伸びていると思った。少し頬が引き締まったような印象があった。それらの小さな違いは、長い船旅があったことを知らせてくれる。
そして同時に、自分が意外なほどよく女のことを覚えていたのだと気づかされた。狼狽した。裂帛の気合いをまともに受け、それでも刀が抜けなかった。逃げるしかなかった。あんな経験は初めてで、俺は未だにこのざわめきをどう捉えたらいいのか判らないでいる。
あの女がいるのだろうか。
ここに。この場所に。
しかし。
(───会って、どうする?)
己にそう尋ねれば、問いだけが体内に反射して空しく木霊する。出来ることなら会いたくないと思うことは、会う可能性を考えているということだ。出会いを確信しているということだ。余計なことに気づいてしまえば、更に思考は入り乱れ、何の結論も出なかった。女の顔ばかりが浮かび、舌打ちする。
会えば、刀を抜き、殺し合えばいい。
ただそれだけの結論を絞り出すのに、どれほどの時間を費やしたことか ──── 。

不意に、視界が開けた。

思わず足を止める。
そこは少し広い、広場のような場所だった。王宮に近くなっていることはいるのだろう。かなり人が多い。戦っている者、逃げだそうとしている者、怪我をしている者、もはや動かない者が入り乱れ、広場を赤く染めている。
王女が見たら嘆くだろうと思いつつ、首を巡らせた。周囲をいくら見渡しても城壁ばかりで、合図がどこにあったのか判らない。戦闘の音ばかりがただ近く、耳を聾する。俺の闘争本能をかき立てる。
いつでも抜けるよう、鯉口に指をかけて一歩足を踏み出した。広場に人間は多かったが、誰もが己のことに手一杯で、一人増えたことを気にする者もいなかった。ただ目の前に現れた人間を殺すだけだ。自らの力が尽きるその時まで。
さすがに胸がむかついて、俺は唾棄する。こんな事態を招いた男の姿を思い浮かべた。余裕綽々で笑っている。あの男は今どこにいるのだろう。今も笑っているのだろうか。それとも、あいつを倒すと決めた男に追いつめられ青ざめているのだろうか。
想像でしかない男の青ざめた顔は、俺の苛立ちを僅かに沈めた。
瞬間。
「何をやってるんです!」
戦場に似つかわしくない声が、俺の鼓膜を震わせた。反射的に姿を探す。見つけられたと思った。この忙しいのに、あの面倒な女に係わっている暇はない。何処にいるか見極めて、すぐに逃げ出さねば。
「敵はバロックワークス! 彼らを一人でも減らしなさい!」
敵も味方も……、いや、正確に言うならこの島中の住民が集まり殺し合う喧噪の中、何故か女の声だけははっきりと耳に飛び込んできた。応じる声は低く、何を言ってるかは聞き取れない。が、その返答に女は益々激したようだ。
「それより先に、成すことがあるでしょう!」
三度、女の声が響く。そこでようやく俺は、女の位置を特定した。俺が立ってる場所の前方、広場のやや外れに立ち、集まった海兵たちに檄を飛ばしている。その女が誰かに命令を下してる姿を初めてみた気がしたが、気迫たっぷりの姿は何故か抗いがたい威力があった。
「しかし、曹長……!」
「わたしは大丈夫です。行ってください」
「その怪我では……」
「 ──── 行ってください!」
「わ、判りました!!」
海兵は気圧されたようにバラバラに散り、たちまち女は一人になる。残った女は黙って刀の調子を見ている。左右を見渡せば、例えこの砂嵐の中にあっても俺の姿を認めることが出来るだろうに、気づかない。
俺も俺で、その隙に逃げ出せと頭が命ずるのに身体が動かせない。
と、何を思ったのか女は急に顔を引き締め、刀を正眼に構えた。理由はすぐに判明する。女の目の前には、十数人の男たちの姿があった。俺の位置から左腕に入れ墨が見える。見間違うはずもない。あの、バロックワークスのマークだ。
目つきの悪い男たちは、下卑た笑いを一様に浮かべる。多勢に無勢。そんな文句が連中の頭を過ぎったのだろう。味方は十人以上、目の前の人間はたった一人。しかも女だ。海兵の首を獲れば報償はどれほどのモノになるか、頭の中は既にそれで一杯のはず。
一人の男が刀を抜く。つられて全員が武器を構えた。女は柄を握る手に力を込める。そして ──── 。
一瞬にも満たない光の交差。
刀が交わった後、倒れ込んだのは女ではなかった。面々に動揺の色が走る。その隙をついて、女は動いた。交錯する剣戟を避け、ついで二人をたちまちのうちに切り伏せる。卓越した技量だ。他の連中から見れば、信じられないほどの強さだろう。
が。
(何やってんだ、あいつは)
俺は音高く頭を掻いて呻いた。
俺の目から見たあいつは、確実に前回よりぎこちない。一度は剣術を間近に見て、一度は刀を交わした経験からしてみれば、その動きはかなり辿々しく弱かった。2、3合で斬り伏せられるはずの相手に、5合はかかっている。
それだけの違い、といえばそれだけの違いであろうが、人数が半端でなく多い以上、一人一人に無駄な力を掛けているようでは駄目だ。早く疲れるのは目に見えている。戦場において、その差は致命的だ。
特に、俺や女が所属する場所では、ほんの僅かな違いが生と死を分ける。よほどの幸運が無い限り、それを覆すことは敵わない。
(……まあ、俺には関係のない話だがな)
胸中で独語し、何も見なかったことにして立ち去ろうと思った。
海軍が市民と戦っていようと、そのせいで“名誉の”殉死を遂げようと、俺には何の関係もない。俺には時間もなく、あの女と係わるとろくなことはない。判っている。簡単なことだ。無視するのが一番いい。
が、どうしても気になって振り返り……、
「ちっ」
仕方なく俺はかけだした。
切り伏せた人数が片手を超えた頃、さすがに女の息が切れはじめる。前後左右に忙しく目を配りながら、女はじりじりと後退する。
人数が多い相手と戦う場合、壁を背に戦うというのが巧いやり方だ。しかし、突発的に始まった戦闘でそこまで気を配るのは無茶な話である。ただ囲まれないよう、不意を付かれないよう警戒し、勝機を見つけるしかない。
あからさまに不利な戦闘は、手加減の余裕も奪う。足の痛みも、焦燥に拍車を掛ける。戦闘を早く終わらせるに越したことはない。そう納得しているにせよ、一振り一振りすべてが相手の命を奪っているのだという自覚は、女の刀をいくらか鈍いものにしていた。
「うわああぁ!」
気合い、というよりも悲鳴に近い声を上げ襲いかかってきた男をまた切り伏せる。腹を薙いだはずの刀が、予想より深く相手に食い込んだ。心臓が冷えた。目の前には既に、剣を振り上げた別の男の姿。女の目に一瞬迷いが生じる。
刀を捨てて、一太刀を避けるか。一太刀受ける覚悟で刀を抜くか。
普段であるなら剣戟を避け、反撃を試みた方がよい。痛みは人の判断を鈍らせ、力を失わせる。体格に歴然とした差がある以上、不利な状況は作らない方がいい。しかし、思うように動かない足が自然、選択肢を狭めた。
瞬く時間もないほどの間で下した結論。
女は左腕を頭上に掲げた。一太刀を凌ぎ反撃するつもりで、刀を抜く右手に力を込める。剣が振り下ろされる。


──── 俺が着いたのは、ちょうどその時だった。


今まさに女に襲いかかろうとした剣をはじき飛ばし、姿勢を崩した所に刀を叩き込む。ぐえっと潰れた音を出し、男が転倒した。全員の目がこちらを向く前に、銃を構えていた別の男を腕ごと薙ぎ払う。血飛沫と共に絶叫が響き渡った。
連中は、数が多いだけで一人一人の腕はそれほどでもない。なおも数回刀を振るうと、あっけなく輪が乱れた。加勢が来た動揺もあったろう。十数人いたはずの手勢は既に半分を割っている。勝敗は、誰の目にも明らかだ。
「まだ、やる気か?」
低く呟き、切っ先を向ける。
「……ひいっ!」
その場に残った数人の男は、たちまち転びまろびつ逃げていった。
一本だけ抜いた刀を俺は振るい、鞘に収める。周囲にはいつの間にか、人の姿はなかった。先ほどまでの戦闘が人の足を遠ざけたのか、それともただ単に波があるせいなのか、戦乱の広場の中で、ここだけがぽつんと静かだ。
「あ……」
小さい声に、俺はようやく背後の存在を思い出す。
振り返ると、目があった。同じように刀を収めた女が、俺を驚愕の面もちで眺めている。それはそうだろう。味方ならともかく、敵の、それも追い続けていた男が自分を助けたのだから。
「ロロノア・ゾロ……」
呼びかける訳でも、命令するわけでもない、ただ目の前にあるものを確認するだけといった調子で、女が呟く。いつもと異なる柔らかな響きが、やけに優しく耳朶を打った。だが、数度の瞬きで女は事態を認識したらしい。
きゅっと唇を引き結び、睨みつけてくる。
まずい。
(なぜ助けたのですか!)
そう叫ばれるに違いないと確信し、俺はきびすを返そうとした。女だとか、馬鹿にしているとか、そう言う類の話はまっぴらだ。めんどくさい。が、そこへ飛び込んできた台詞は想像とは全く違った。
「どうしてあなたがここにいるんですか!」
「……あぁ?」
「合図は時計塔でしょう! 時計塔にお仲間がいるんですよ? どうして、あなたがここにいるんですか!?」
「時計塔?」
「向こうです!」
そいつが指さす先は、俺が思っていた方向とは全く違うところで。どうしてそこに行かないのかと言われても、答えようがない。ためらっていると、俯いて口元を拭い荒々しく息を付く。激しい立ち回りのすぐ後で怒鳴ったため、息が切れたらしい。
単なる戦闘の疲れ、とは別の理由で女の息が乱れていることに、俺は何故か狼狽した。女の仕草で、足を悪くしたのだと見当を付ける。気丈に振る舞っているが、かなりの重傷らしく、顔が青い。女の頭に留まったままの眼鏡が、女が受けた傷の深さを物語っているようにも思えた。
「……怪我、したのか?」
女は目をそらしたまま、口早に答える。
「あなたには、関係のないことです」
常に俺に向けられていた視線は、今回に限って下を向き、地面すれすれの空気を掻いている。俺は女の指さした方向をとりあえず眺め、また頭を戻し、ぐずぐずとそこに留まっていた。理性は早く行った方がいいと告げている。だが、このまま女を残して去ることが良いとはどうしても思えなかった。
ただの好奇心だと心中で言い訳して、ひとつ空咳をする。
「 ──── いいのか?」
「何がです?」
「俺は、海賊だぞ」
途端に肩がぴくりと強ばるので、女がそれを忘れてないのだと知った。俯いたままでは女のつむじしか見えず、何を考えているのかは判らない。ただ、黒髪の下で女が幾度も口元を拭う様子をぼんやり眺める。
女の口元には何も付いてない。だから多分、女が拭いたいのは別の何かなんだろう。そう感じた。その正体を探ろうと思考を伸ばしかけたとき、ようやく女は唇を開く。
「よくは……ないです」
苦渋を押さえ込んだ声は掠れていたが、それでもはっきり俺の耳に届いた。
「けど、仕方ない」
手の甲を唇に当てたまま、しばらく黙り込む。
泣いてるのではないかという、埒もない妄想に駆られた。が、俺が半歩進み出るより早く、女は顔を上げる。
その瞳はにがりと苦悩と、それをねじ伏せるだけの強さを籠めた不思議な濁りがあった。以前見たときにはなかった淀みが、一層、この女を艶やかに見せていることに、俺は初めて気づく。新鮮な驚きが胸を浸した。
女は唇を微かに持ち上げて、微笑う。
「わたしに出来ることは、これくらいですから」


何があったかは知らない。
聞こうにも時間はないし、そもそも聞く気もない。
だが ──── 。


胃の奥がくすぐられるような奇妙な可笑しさに、俺は場違いな笑い声を立てた。唐突に訪れた笑いの発作はいっかな収まらない。通りに立っていた海兵や俺たちを見逃した男、以前の女の姿が頭を過ぎり、ひっくるめて笑い飛ばした。
女は目を見開いて、笑う俺を見ている。何で笑っているのか、俺自身もはっきり理解していないのだ。女には理解不能だろう。何とか笑いを堪え、俺は口を開いた。
「妙な女だな、あんた」
女は一瞬、何を言われたのか判らなかったらしくぽかんと俺を見返す。惚けていたのもつかの間、馬鹿にされたと思ったらしい。急に顔を真っ赤に染めて、叫ぶ。
「な、なにを言ってるんですか!」
その声もうわずっていて語尾が絡み、動揺しているのが手に取るように判り、もっと可笑しくなった。
「おまけに馬鹿だ」
「それくらい判って……!」
「けどまあ」
激昂する声を遮って、顎をしゃくり上げる。
「そういうのも、悪くねえよな」
「 ──── ……!!」
女の顔はそれこそ見ていられないくらい真っ赤になっていて、怒っているのか恥じているのか判らない。パクパクと幾度か口唇を開くが、形にならない。首筋まで朱色に染まった辺りでようやく台詞を思いついたのか、乱暴に指先を俺に突きつけ、大音声で喚く。
「早く行ってください!」
「へいへい」
時間があったならもう少しからかってみたい所だが、俺は仕方なく身を翻して走り出した。
途中、名を呼ばれたような気がして振り返る。砂塵に紛れて、海兵の姿も誰の姿も確認できなかった。気のせいだろうと俺は自分を納得させる。聞こえるはずがない。この乱闘の中だ。誰が何を言ったかなど、判るはずもない。
ましてや。

『ありがとうございました』

あの女が、そんな殊勝な台詞を吐くはずがない。
なのに、つい女が例の真っ赤な顔のままヤケ気味に怒鳴っている所が胸を過ぎり、俺は堪えきれずに笑った。笑いながら、また走り出す。とにかく時間がないことだけははっきりしているのだ。急ぐに越したことはない。
北に向かえ、という言葉を思い出し、どうせなら近道しようと階段を駆け上がった。走るうちに目的の塔が見えてくる。
「 ──── あれか」
一人ごちて、俺はまた後ろを振り返った。
そして、また笑った。

- END -




コメント

アラバスタ編で、せめてもう一度ゾロとたしぎが会ってくれればよかったのにー!という願いを込めて書いてみました。初めての投稿で少々緊張気味ですが、気に入っていただければ幸いです。
 …それにしても。原作で二人が再会するのはいつ…(遠い目)。



おはぎ様本当に有り難うございました!

おはぎさんのHPは→コチラ

2002/11/11