No.196/おはぎ様
どうしてこんな事になったのか。
回転のきわめて鈍くなっている頭では、正解など出なかった。ただ、たしぎは黙り込んでその背を見つめている。幅広の分厚い大きな背中だ。身じろぎするたびに衣服の下に隠された筋肉の動きが見て取れ、鍛え上げた中身を暗に伝える。 一見しただけでは、相手がどれほどの力量を持つかは判らない。かつての自分がそうだったが、その余りに傍若無人な態度や無警戒な仕草から、いっそ腰のものはただの飾りなのだろうかと思わせるのだ。多分、それすら気にとめてないのだろうが。 ただ、よくよく観察すれば判ることがある。この背はほとんど足音を立てない歩を運び、周囲の人間には無頓着に進むようでいて、全く通行人と肩がぶつかることがない。それを自然にやってのけているのだとしたら、大したものだ。 雑多な人混みの中で幾度も人とぶつかり謝り、また些細な石に転びそうになった己を振り返り、たしぎは赤面して俯いた。こんなにも、自分と相手には差がある。一体、いつになったら埋められるのか判らぬほどだ。 「 ──── おい」 低い声に慌てて顔を上げた。太い首の上に乗り、いつの間にか振り返っている顔は、以前にも増して不機嫌だ。 「来ねえのか?」 「行きます」 反射的に答え、己の愚かさに舌打ちしたくなった。 素手ではこの男に敵うはずがない。そりゃ今は男だって条件は同じだが、力勝負ではどちらに分があるか目に見えている。なのに、空手のまま自分は何処に行こうというのだろう。 目指すべき背中。 ──── その名を、ロロノア・ゾロという。 凍える魚 事の起こりは、半刻ほど前。武器屋にまで遡る。 本日たしぎは休暇で、というか新しい島に着いたものの一向に麦わら一味の動向はつかめず、業を煮やした上司がすべての資料を投げ出して一言、 『やめた』 と言ったおかげで、一日ぽっかり空いてしまったのだ。もちろん、上司が真実「やめた」訳でないことくらい知っている。ここのところずっと根を詰めて働いていた海兵全員を気遣ってのことだと判っている。その心遣いは嬉しかったし、ありがたい。 ともかく。空いた時間を利用して、たしぎは港近くの武器屋に己の武器を持参した。刀を愛する彼女にとってみれば、休暇は刀を研いで貰ったり未だ見ぬ掘り出し物を探す絶好の機会だ。逃す手はない。 武器屋は狭くて暗く、埃臭くてちっとも流行っていないようだった。そろそろお昼、という客足の遠のきそうな時間帯ではあるが、ざっと見たところ客は一人もいない。その代わり、置いてある商品と言えば実に幅広かった。 生活用品的な刃物の類は少なく、一カ所に纏められていてほこりをかぶっている。後は刀剣の類や掛け軸、壷などが所狭しと飾られていた。特に力が入っているのは掛け軸で、何と書いてあるのか判らない文字の数々や、山や花など無数の絵が掛けられている。 店主の趣味なのだろうが、これでは武器屋なのか古物屋なのか見当も付かない。 店主は商売っ気があるのかないのか、とことん無愛想で椅子から立とうともせず客を迎えた。事情を聞き、刀を検分して一言。 「明後日だね」 「明後日?」 意外な日数に驚く。たった一本。それもこんな流行っていなさそうな店で、それほど時間がかかるとは思えない。やっぱり止めようか、などと揺らぐ気持ちを察したのか、店主は初老の男性特有の白髪交じりの頭を一撫でした。 「四本の刀を今日中に研げるわけねえだろ」 「……四本?」 「先約だ」 納得する。刀を研ぐという作業は意外に精神力を使う。仕事とはいえ、四本も立て続けに研いでいたら、確かに疲れるだろう。まあ、「仕事なのに」疲れるという理由だけで突っぱねるのもどうかと思うが。 ふと思いついて、たしぎは明るい声を出した。 「あ、でも明日は一本ですよね」 だったら明日中に出来るのでは、という言外の注文を読みとり、店主はとことん機嫌が悪そうに、太い眉の角度を跳ね上げる。反比例するように声は低くなった。 「二日も続けて、この儂に働けというのか?」 「あ、いえ、どうぞゆっくり休んでください」 その気迫に思わず愛想笑いを浮かべる。店が流行らない理由が何となく判った。まあ、彼も彼なりに信念を持って仕事をしているのだと自分を無理矢理納得させ、彼女はひとまず預かり書を受け取る。 代金の請求は海軍に回して貰うよう頼み、代刀をねだると、まっすぐ部屋の隅を指し示された。刀類が詰め込まれたガラスケースがある。埃をかぶらないためにガラスにいれているのだろうが、肝心のガラスが曇っていて中にどんなものが入っているか判らなかった。 仕方なく近づきながら、会話の糸口を探す。 「刀を三本、今日中なんて大変ですね」 「ああ」 三本、という数から連想するのは不愉快なものだ。だが、この島にその影があるはずないので、敢えて形にするのは避ける。近づいてみると、曇りガラスの奥で刀が多数並んでいた。手入れはキチンとされているようで、刀自体に埃など一片もない。安心した。 「この島は、武術に力を入れてるんですか? 近くに道場でもあるとか」 「まさか」 苦々しい相づちを気にしないようにして、隣に移る。刀が収められているガラスケースは四つで、全部足せばかなりの数になった。刀好きの血が疼く。高そうに見えるものも大量生産品も、同じように陳列されていて面白い。これも店主の趣味だろうか。 代刀を探す、という目的から既に外れて、たしぎは熱心に刀を見歩いた。三つ目、奥のケースに移動する。口だけは店主に答えながら、意識は完全に刀に吸い寄せられていた。暗い室内がもどかしい。もっと明るければ、刀の名前まで判るのに。 「でも、三人も刀を研いで貰いに来るなんて……」 「一人だ」 「一人?」 「ああ。しかも、研ぎ終わるまでここにいるっていうんだから迷惑な話だ」 「……ここって」 その時。 四つ目のケースに移ろうとしたたしぎは、足に妙な感触を覚えて動きを止めた。何か、柔らかいものを踏んでしまったような気がする。思わず刀から目を離し、足下を見た。 足の下には、更に足があった。 大きな足だ。ズボンを穿いている。ゆるゆると視線を上げると、緑色のハラマキが見えた。更に上げると、安っぽい白いシャツ。その先に、頭が乗っていて気まずそうに彼女を見上げている。左の耳には三連のピアスが光っていた。 大きな体を壁にへばりつかせ、出来うる限り低く身をかがめている様は、先ほどから、おそらく彼女が店に入った当初から、見つからないよう隠れていたのだという事実を容易に伝える。そんな、一人の男がそこに在った。そんな、一人の男と目が合った。 彼女の世界は、そこで崩壊した。 「ついでに、あんたの代刀を探して貰っちゃどうだ」 店主の声が世界の全く異なるところを上滑りに通っていき、どこにも引っかからず逆の耳に抜けていく。何か答えた方がいいのだろうかと、誰かが心の中で呟いたが意味が分からなかった。すべての思考が硬直して何も考えられない。 手も足も、呼吸も心臓さえも、かつて自分がどうやって動かしたか思い出せなかった。いっそ目もその機能を忘れてしまえばいいと思うのだが、それだけは叶わず、瞬きもせぬままレンズ越しに一点を見つめ続けていた。 時間さえも希薄な静寂の中。 足を踏まれた男は、開き直ったのか顔をしかめた。 「さっさと足を除けろ。痛エ」 小さな呟きに、魔法が解ける。瞬きをし、彼女は大きく息を吸った。大きく大きく。杯が限界を告げてもなお大きく息を吸う。そして ──── 。 「ロロノア・ゾロ ──── !!!」 たしぎ曹長の絶叫が、古びた武器屋の天井を揺らした。 その名を持つ男は、うんざりした風に眉を顰める。片手で片耳を塞ぎ、そっぽを向いた。 「怒鳴んなくても聞こえる」 「なぜこんな所に!」 「いいから、足を除けろ。いつまで踏んでる」 「そうやって逃げるつもりですね! あなたのような悪党はここで成敗します。勝負!」 「何でそうなる! てめえこそ人の足踏みながら勝負を挑むなんざ、卑怯じゃねえか」 「卑怯!? あなたにそんなこと言われる筋合いはありません! こそこそを隠れて人のこと見張ってたくせに……」 「ちょっと待て、人聞きの悪い! 誰がこそこそだ。勝手に入ってきたくせしやがって! てめえこそ俺を付けてきたんじゃねえのか!? 海軍ってのは姑息な手段がお好みらしいな!」 「何ですってぇ!!??」 「やかましい!!!!!!!!!」 唐突に始まり、いつ終わるとも知れなかった口論を、その一喝が収めた。両者が顔を上げると、いつの間にか店主がカウンターを乗り越えて二人を睨みつけている。額に青筋が浮かび上がり、背後に青白い炎を抱え、その姿は悪鬼そのものだ。 世界一の剣豪になるはずの男も、その刀を奪うため日々特訓を積んでいる女も、何故か一瞬で青ざめて身体を引いた。 「あんたら、知り合いかね」 「知り合いじゃねえよ、こんなキンキン声のパクリ女」 「それはこっちの台詞です! あなたみたいに目つきも態度も根性も服の趣味も悪い大悪党の海賊が、わたしの知り合いのはずありません!」 「服の趣味は関係ねえだろ! 大体てめえ、知ったかぶりして人のこと決めつけるんじゃねえ!」 「知ったかぶり!? てことは、あなたは自分で自分のことを、態度も根性もいい善良な海賊だって思ってるですか!? あつかましいにもほどがあります!」 「誰が……!」 「やかましい!!!!!!!!!」 再びの大喝に、二人は綺麗に首をすくめた。 悪鬼は既に鬼神へと姿を変え、迂闊に触れればどんな祟りが起こるか判らない。そもそも店主は、単なる小柄な老人であるはず。それが、なぜこんなにも大きく畏れ多く近づきがたい迫力を持っているのか。刀すら歯が立ちそうにない気迫を備えているのか。 それすらも判らぬまま、ただただ呆然とその威容を見つめていた。二人が完全に萎縮したのを見計らって、天からのお告げは下る。 「出ていってもらおう」 「で……!」 「な……!」 「出ていけ!!!」 同時の抗議も意味を成さず、かくして両者は外に放り出された。 扉の前で、しばし呆然と佇む。外は平和で、通行人も誰もいない、静かな世界が広がっている。犬が暢気にあくびしながら一人、散歩していた。そのしっぽが揺れながら去っていくのを眺めつつ、たしぎはぽつりと呟いた。 「あなたのせいですよ」 「てめえのせいだろ」 「どうしてですか。わたしはただ、代刀を貰いたかっただけで……!」 「俺だってそうだ。てめえが邪魔さえしなけりゃ」 「よく言いますね。大体あなたが……!」 「それはこっちの……!」 二人の声が高まり始めた瞬間、 ──── ダンッ! 武器屋の扉が大きく一つなり、二人は口をつぐんだ。しばしの静寂。何となく二人は目を合わせ、慌ててそっぽを向いた。動いたのはゾロだった。一つ咳払いをして、歩き出す。たしぎは思わず、その背を呼び止めた。 「何処へ行く気です?」 「知るか。場所を変える。付いてくんな」 振り向かないまま答える男の背を一瞥して、彼女は慌てて後を追う。 ずっと追っている海賊から、「付いてくるな」と言われたので見逃した。などということが判れば、上司に何と言われるか判らない。軍法会議ものだ。 手錠か何かで相手を拘束できればいいのだが、生憎休暇中で、服の何処を探ってもそれらしいものは出てこない。せっかく目の前にいるのに、捉えられないのはしゃくだ。反射的に、手なり腕なり掴んで歩く、という案が頭を過ぎるが、速攻で焼却処分した。 どう考えたって、その図式は誤解を招く。招きまくりだ。曹長ともあろう人間が、休暇中に海賊とデートなんて噂が立ったら、軍法会議もなく一発で海軍除名である。 結局、数歩遅れて彼女は男の後を追うことにした。 足音を聞きつけたのか、男はちらりと振り返り、苦々しく顔をゆがめる。 「付いてくるなっつっただろ」 「嫌です。まさか本気でわたしが見逃すとでも思ってるんですか?」 「……」 「逃げたって無駄ですよ。戻ってくる場所は判ってます」 返答は、盛大な舌打ちだった。 「 ──── ったく。なんだって、よりによってこんな日に……」 「こんな日?」 小さな独語を聞きとがめたが、男は気にせずにさっさと歩いていく。彼女は慌てて後を追った。 路地を抜け、角を曲がると潮の匂いがした。誰もいなかったのが嘘のような賑わいが、耳を聾する。港に隣接した市場に出たのだ。昼時と言うこともあり、各商店では海のものをここぞとばかりに売り捌いている。 たしぎたちが今いる島は、漁業と観光で成り立っている島だ。とある海産物が世界中に知れ渡っており、それに頼り切る形で島民は生活している。市場が賑わっているのも当然だろう。彼女は思わず、男の背中など忘れてキョロキョロ周囲を見渡した。 見たことのない魚や、貝がごろごろしている。客引きの類が各店舗に二人ずつ立ち、様々な口上で客の興味を誘っていた。あからさまに観光客風の人間が値引き交渉をしていたり、子供を連れた地元女性が魚をかごに詰めている。 最近、海軍に詰めてばかりでほとんどこういう商店を歩き回らないたしぎにとっては、何もかもが新鮮だ。 魚介類を売っている隣では、これは観光客用なのだろう、雑貨の類が置かれていた。魚拓で作った旗の隣に、珊瑚のアクセサリーが飾られていたりと、その粗雑さに笑みがこぼれる。その隣では魚の脂を使った化粧品や薬の数々が並んでいた。干し物を売っている店もあり、見ていて厭きることがない。 更に歩くと、いい匂いが鼻先をくすぐり、食欲を刺激した。食堂まで出ているのだ。市場で買ったものをその場で調理できると、店員が叫んでいる。たしぎはふとお腹を押さえた。そういえば、朝ごはんを食べたきりで何も食べていない。美味しそうな匂いに食欲を刺激されてしまう。 と、突然額が何かにぶつかり、たたらを踏んだ。顔を上げると、呆れ半分の男が彼女を見下ろしている。たしぎは慌てて数歩後退した。忘れていた。そういえば、自分はこの男を追っていたのだった。 「……おい、どうなんだ」 動揺している彼女に頓着せず、ゾロは問うてくる。何か質問をしたらしいが、聞いてなどいなかった。目をぱちくりさせ、おずおずと聞き直す。 「何がです?」 「腹、減らねえのか」 「 ──── あ、はい」 やましさも手伝って思わず素直に頷くと、男はさっさと方向転換し、食堂に消えていった。困惑して立ちつくしていると、振り返り呼びかけてくる。 「来ねえのか?」 「行きます」 反射的に答えたものの、困惑は更に深くなった。まさかは思うが、食事に誘われているらしい。いや、誘う、というのには語弊がある。付いてこい、と言っているらしい。どうせ逃げられないなら、と観念したのかもしれないが、何を考えているのだろう。 それでも後を追って、食堂に入った。 食堂、といってもそこは、かつての競り市場を食堂に改装しただけの粗雑な作りだった。魚の匂いが染みついた、愛想も何もない吹きさらしの広間に、テーブルをいくつも並べてある。各テーブルの境に薄汚れた観葉植物が置かれていて、それだけが唯一食堂らしい。 通された席は、その食堂の中でも更に道路に面した壁際で、キッチンよりも道路向かいの雑貨屋の方が近い。道路の先に漁港が見通せ、船員が自船の世話をしている様まで判る。良い席とは言い難いが、席で食べるわけではないのでいいだろう。 ゾロがさっさと道路を見渡せる席に座ったので、彼女は仕方なく道路を背にする壁際に腰掛けた。 「酒」 席について、開口一番。男が注文した品はそれだった。さすがに困惑する店員が、助けを求めるようにたしぎを見やる。そんな目で見られても困ると、ゾロを上目遣いに睨んだ。 「さっき、お腹が空いたとか言ってませんでしたか?」 「食い物といやあ、酒だろ」 「お酒は飲み物であって、食べ物じゃありません!」 「そうか?」 暢気に首を傾げる男を無視し、お茶とメニューを頼む。市場で何か買ってくれば良かったのだが、何も持ってない以上、適当に注文するしかない。相手の好みなど知る由もないので、さっさとメニューの中から好みの品だけを注文する。 男は特に何も反応しなかった。本当に酒だけが飲みたかったらしい。妙な男だ。 食事を待つ間はとにかく気詰まりで、仕方なくたしぎは海の方ばかり眺めていた。気づくと、男まで黙って真似している。何となく不愉快だったが、指摘するのは余りにも子供じみているので、我慢することにした。 と、男が初めて身じろぎし、漁港を指さす。 「なんだ、あれは」 指さす先に目を凝らすと、鮫が何匹も逆さにつられている所だった。大きさは、人の半分ほどか。白い腹が並ぶ様は、何やら気味悪い。 「ああ。食材です。鰭を取るんですよ。知りませんか? この地方の特産品で、美味しいらしいですよ」 「鮫の鰭を喰うのか」 心底意外そうに呟くので、可笑しくなった。 「もちろん、そのままじゃ食べません。一ヶ月以上天日に干して、それから加工して、スープで何日も煮込んで、ドロドロに柔らかくしてから食べるんです。世界の珍味って言われてるんですよ。ホントに知りません?」 「 ──── へえ」 どうやら本当に知らないらしい。誰かなら知ってるだろうか、などと言うことを呟いたが、余りに小さな声なので、誰のことを言ったのか判らなかった。もっとも、自分も上司から作り方をこの前聞いただけだったので、細かいことを聞かれても困るのだが。 真っ白な魚の腹を眺めつつ、たしぎは緩く顎を振った。いくら元は人に害を与えかねない魚であろうと、将来的に美味しく食されるのであろうと、並べられた死体の群を眺めるのはいい気分でない。 「まあ、わたしは……。あまり好きじゃないですけど」 「美味いんだろ?」 「料理は好きです。でも、鮫はあまり好きじゃない」 なぜこんな話をし始めたのか理由を思いつかないまま、彼女は用意されたお茶をすする。異国のお茶はどことなく雑踏と土埃の臭いがした。男が同じく卓上に置かれた酒を注ぐのを眺めるうちに、耳元で遠い昔の記憶が囁く。 (ごらん、あれが鮫だよ) 柔らかな声につられて、港を見た。 そこには既に狩られ、冷たい屍を晒す巨大な魚の姿がある。 (大きいだろう) (鋭い歯だ) 声が誰だったか。今となっては覚えていない。父だったか、近所のおじさんだったか、それとも通りすがりの漁師だったのか。記憶は霧がかかったかのように朧だったが、その声に畏怖と嫌悪と憧憬が入り乱れていた。それだけは覚えている。 声はなおも続く。 (知ってるかい) (あの魚は ──── ) ひとつ頭を振るって、過去を払い落とした。 そこへようやく料理が届けられる。心底ほっとして、同時に空腹を思い出した。相手はともかくとして、食事にありつけるのはありがたい。嬉々として取り皿を手にすると、当たり前のように男も箸を手にしていた。やっぱりお腹が空いてたのだと呆れる。 一応一人分より大目に頼んであるのだが、この場合、料金は割り勘にするのだろうか、それとも自分がすべて持つのだろうか。妙な疑問まで頭を過ぎったが、それはひとまず置いて、料理を頬張る。 「 ──── あ」 「美味いな」 まったく。 誰を前にしていても、美味い料理は美味かった。海産物と野菜を中心とした皿が次々と並べられる。どの皿も味は少々濃いめだが、素材の新鮮さを生かし、風味を損なっていない。その上で、一皿ごとに異なる豊かな味わいに感動すら覚えた。 男は感動など無縁で、ひたすら料理をむさぼっている。このままでは足りないだろうと早々に判断し、もう数皿注文を追加した。これで机には2人分以上の料理が並んだことになるのだが、それもたちまち空皿に変わっていく。 中には、さっき向こうで吊されていた魚のスープもあった。男にそう教えると、特に興味をそそられたようだ。幾度も中を覗き込んでゆっくりすすり、満足そうな顔になる。気に入ったらしいと思うと、訳もなく心が暖かくなった。 男はスープを飲みおわり、各皿をつつきながら、本格的に飲む方に中心を移していった。どうやらあらかた食欲は満たされたらしい。食べるのが早いと妙なところで感心しつつ、青菜を牡蠣ソースで煮込んだ料理を口に入れる。 咀嚼しながら、自分もスープを碗に注いでいると、ふとゾロが自分を見つめていることに気づいた。酒を飲むのを止めて、頬杖を付き、しみじみとこちらを見ている。何やら急に首の辺りがかゆくなった。慌てて飲み込んで、疑り深い声を出す。 「……なんです?」 「いや。美味そうに喰うな、と思ってな」 美味いのだから仕方ない。 そう言い返そうとして、口にした言葉以外、何の意味もからかいも含んでいないまなざしとぶつかり、妙な気分になる。胃の奥をくすぐられているようで、落ち着かない。意味もなくスープをかき混ぜて、これはやっぱり馬鹿にされていると思った方がいいのだろうかと考えた。 それにしてはゾロの目は随分優しくて楽しそうで、とまどうほどだが。 その時。 突然わっと拍手がわき起こり、たしぎは不可思議な困惑から解放された。 彼女から見て、斜め前方の席に店員たちが集っている。何が始まるのかと食堂内の目が集まったところで、歌が始まった。それは誕生日の歌だ。小さいながらも、ケーキまでがついている。どうやらこの食堂では、そういうサービスを行っているらしい。観光客向けだろうか。 楽しそうな客につきあいで拍手を送っていると、ぽつりと呟く声が耳に入った。 「ふーん。奇遇だな」 瞼を一度強く閉じ、また開いて、声の主を眺める。間違いない。目の錯覚でも耳の錯覚でもない。確かに今、この男はそういった。 奇遇だな、ということは、同じ日に心当たりがあると言うことだ。同じ日、ということは……。 先ほどの、苦々しい顔が頭を過ぎった。 (よりによってこんな日に) それはつまり ──── 。 自らが出した結論に、たしぎは椅子を蹴って立ち上がった。 「ロロノア! き、今日誕生日なんですか!?」 食堂内に響き渡る甲高い絶叫に、食堂に居並ぶ面々が一瞬何事かとこちらをみやる。たしぎは思わず紅潮し、固まった。ゾロは額を押さえ、低く呻く。とりあえず座るように促され、席を元に戻した。 「なんでンなに驚くんだよ」 「だって……。ロロノアが誕生日で歳を取るなんて、想像も出来なくて」 「悪かったな」 「それで、いくつになったんです?」 「 ──── てめえには関係ねえだろ」 「……それはそうですが」 純粋な好奇心からなおも聞き出そうとした途端、彼女は妙なことに気づく。同時にゾロも顔色を変えた。同じ事に気づいたらしい。 何やら、先ほどよりテーブルが暗い。 顔を上げるといつの間にか、このテーブルにまで店員たちが詰めかけていた。さっきのたしぎの叫びを聞きつけたらしい。既に笑顔のサービスと歌う気分は満点のようである。慌てて立ち上がり両手を振ったが、その前に歌が始まった。 誕生日を祝う異国の歌は、それでなくとも不協和音のテーブルに、虚しいまでの輝きでもって響き渡る。たしぎは立ったまま、ゾロは頭を抱えたまま、拷問にも似た苦行の時間を赤くなったり青くなったりしながら過ごした。 やっと終わった歌に、満面の笑みがつく。 「誕生日、おめでとうございます!」 「いえ、あの……」 「これは、当店からのサービスです!」 「ちが……」 「これからも、当店を宜しくお願いします!」 怒濤のようにわき起こる拍手に送られながら合唱隊が去った後、小さなケーキが残された。 ──── ただ、ひとつだけ。 二人は固まっていたままの首を軋ませて、お互いお互いが一番出来る精一杯の嫌悪の表情でにらみ合う。 「てめえが喰えよ」 「どうしてですか。あなたが貰ったものですよ。わたしが食べるわけには行きません」 「てめえがあんなこと叫んだからだろうが。第一、俺はこんな甘いのは苦手だ」 「苦手だろうと何だろうと、せっかく貰ったんですから!」 「だから、てめえが喰え」 「わたしは、好意の問題を言ってるんです!」 皿を挟んだ押し問答の末、ケーキは二つに分けられることになった。 |